玄米菜食 14 玄米菜食の玄米はいかなるものなのか 01 玄米20徳を唱えた二木謙三博士 01 二木式健康法とは
二木謙三博士の「玄米20徳」は大変、参考になります。
これを紹介する前に二木謙三博士とはいかなる人物だったか、
事典(ウィキ)でこのように紹介されています。
二木 謙三(ふたき けんぞう
1873年(明治6年)1月10日 - 1966年(昭和41年)4月27日)は、日本の細菌学者、医師。
秋田県秋田市千秋明徳町、樋口順泰の二男として出生、二木家の養子となる。」山口高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業、東京市立駒込病院に勤務。
1905年(明治38年)ドイツに留学、ミュンヘン大学教授のグルーバーに師事。
1909年(明治42年)駒込病院副院長、東大講師、医学博士、
1914年(大正3年)東大助教授、1915年(大正4年)高木逸磨等と共に
「鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータ」発見。
1919年(大正8年)駒込病院長、1921年(大正10年)東大教授。
1929年(昭和4年)学士院賞受賞、日本医科大学、東京歯科医専、日本女子大学教授となる。
1951年(昭和26年)日本学士院会員、日本伝染病学会(現:日本感染症学会)長。
1955年(昭和30年)文化勲章授与。1966年(昭和41年)93歳で没す。
天然免疫学理の証明の実績を遺し、
玄米食の提唱、実践運動や教育者として功績を残した。
有職故実の二木謙一の祖父。
二木は秋田佐竹藩の藩医、樋口家の出身で、元の姓は樋口であった。
8人兄弟の3番目に生まれた。3歳の頃、同じ秋田藩の藩医、二木家に養子縁組して、
二木姓を名乗る。
生まれた時には1年ももたないといわれる程の虚弱であった。
20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされたが、
徴兵検査のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、
軍隊の黒い麦飯を食えと一喝され、その翌日から麦飯食を始めた。
これにより、虚弱な病身から解放された。
このように二木は、藩医の家の生まれであること、そして、
また、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという原体験により
西洋医学の道に進路をとり、
そして、それと矛盾することなく東洋的な健康法の普及活動に志向した。
食事法としては玄米菜食による完全食、家は塩は用いず、動物は少なくし、
二分間煮で食べることを提唱していた。
二木自身は48歳より、1日1食、玄米、塩なし、
油なし、火食なし、動物不要の食事となった。
正心調息法の創始者である塩谷信男は二木の健康法を実践して病弱体質を克服した。
二木は晩年も元気に活動し、亡くなる前には全国の弟子たちを電報で呼び集め、
全員が揃ったところで「それじゃあ、君たち、最後の息をするから、さようなら」と
言って世を去ったという。
★ 食事は完全食
基本的には死んだものでなく生きた新鮮なものを、
動物よりは植物を摂取することを推奨。中でも玄米は完全食であるという。
二分間煮
野菜を煮て食するに際しては、調理過程として、煮始めて沸騰し始めるが、
沸騰時間は2分間として即加熱を停止し、
蓋をしたまま5分~10分程してから食することをいう。
二分間煮とは沸騰二分間ということである。
★適応食
年齢、性別、職業、季節、地勢などに応じて適切な食べ物を選択すべきであると説く。
乳児 母乳、果汁、おかゆ
1~6歳 玄米、野菜、豆、芋
7~15-6歳 上記植物類に加えてえび、あさり等の小動物。
15-6歳から上は男女が分かれてくる。
男性 肉体労働を行う男性は食物欠乏のときは肉をとってもよい。
女性 大きな動物は食べないほうがよい。
40~60歳(初老)男性でも大きな動物を食べるのはやめ、15歳以前の子供と同じく野菜類と小動物にする。
60~80歳(中老)5歳以前の子供と同じく穀菜食にする。
80~(大老)ものをよく噛んで汁だけをしゃぶって食べる。