40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

断食指導30年のあゆみ 44 本物の断食とは何か 26 聖ベネディクトゥスのような究極のファスティング領域にいく

西欧で聖アントニウスに次いで

ヨーロッパ文明の源流といわれる聖ベネディクトゥスがあげられます。

ベネディクトゥス(480年頃 - 547年・中世のキリスト教修道院長で、

西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、

ベネディクトスの著した会則は西ヨーロッパに広く普及し、

やがて「西欧修道士の父」と称されるようになった)は、

断食についても明確な会則を制定しました。

ウィキで紹介されている伝記を引用しておきます。

 

・・・古代ローマ貴族の家系に生まれ。

伝承によれば、双子の妹にスコラスティカ(聖スコラスティカ)がいた。

少年時代は両親とともにローマに住み、学問を習得した。

ローマでは、東ゴート王国の大王テオドリックが奨励する古典教育を学んだ。

これは行政官として必要な教養を身につけるためであったが、

キリスト教の福音の教えに共鳴したベネディクトゥス

神に自らの生涯を捧げることを決意し、早い時期に学校を退学した。

ベネディクトゥスは隠修修道を行ったわけではなかったが、

ローマ郊外の都会の喧騒を離れた場所で新たな生活を始めた。

しばらく後、ベネディクトゥスはローマを完全に離れる必要を感じ、

田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことを考えるに至った。

ベネディクト会の標語 “ora et labora” 「祈り、かつ働け」 は、

この精神を表現したものである。

修道士ロマヌスの勧めで数年間洞窟での隠修生活をした後、

ベネディクトゥスは山中の町スビヤコ(ラツィオ州)に修道院を設立した。

彼のもとに、彼の評判を聞いて次々と共鳴者が集まり、

スビヤコには12の修道院が増設されるに至った。

しかし、同時に反感をもつ者も増えていった。

12の修道院のそれぞれに、ベネディクトゥス

12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は別の修道院

ごくわずかな弟子たちとともに住んだ。

とはいえ、ベネディクトゥスは依然としてスビヤコ全体の修道院長であり、

修道士たちの信仰生活の父親役を務めたのである。

ベネディクトゥスは、彼のことをこころよく思わない修道士によって

あやうく毒殺されそうになり、スビヤコの町をいったん離れた。

ローマ在住の貴族たちは、彼の修道院に子弟をあずけるようになり、

そのなかから聖マウリスや聖ブラキドゥスなども現れた。

ベネディクトゥスに弟子が増えると、地元の聖職者たちからの敵意はいっそう募り、

彼は南へ約100キロメートル離れた町への移動を余儀なくされ、

529年頃、モンテ・カッシーノに移り、修道院を設立、

モンテ・カッシーノ修道院設立の後は、

ベネディクトゥスの生涯はその理想とする修道生活の実現のために捧げられた。

540年頃、ベネディクトゥスは会則を定めた。

厳格派と穏健派の中道をつらぬき、労働と精神活動について定めたこの会則は、

西ヨーロッパにおけるほぼすべての修道会へ広がっていき、

以後、長い間、中世ヨーロッパの修道制度の基礎として考えられてきた。

ベネディクトゥスは547年頃にモンテ・カッシーノで死去し、

妹の聖スコラスティカとともに埋葬された。・・・

 

 

また「世界史の窓」には次のような説明がなされています。

 

・・・ベネディクトゥスは、修道院の創設や戒律の制定などで知られるが、

ヨーロッパ=キリスト教世界では、その生き方そのものが

ヨーロッパ文明の源流であり、設計した人物として崇敬され、

「聖ベネディクトゥス」と言われている。

ローマ帝国が崩壊した後も、荒廃と混乱のなかで彼は修道院を建設し、

福音を述べ伝え、大地を耕して豊かにし、

ありとあらゆる事業を計画的に発展させ管理する修道士たちを生みだした。

また学校や図書館、ギリシア・ローマの古典、哲学や芸術、

薬学や神学書の保存と研究は、そのすべてが彼らの仕事であった。・・・