40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

玄米菜食 123 玄米菜食の玄米はいかなるものなのか 19 桜沢如一による「マクロビオティック」とは 02

マクロビオティックの運動の始まりとしては、

1928年に桜沢如一が行った講習会であるといわれています。

桜田は、1910年代には食養会に入会し、

雑誌『食養雑誌』に投稿をはじめ、1937年には食養会の会長に就任しましたが、

2年後脱退しています。

そしてすぐにフランスのパリに渡り、1931年にはフランスで本を出版し、

各種の新聞や雑誌で鍼灸、華道、柔道、など東洋について講演をしています。

帰国後の1940年9月、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設し、

それは後に日吉にできたメゾン・イノグラムスとなります。

メゾン・イノグラムスは、通称MIと略され、

意味は「無知者の家、愚か者の家」という意味で世界政府運動も行っていたため、

世界政府の家とも呼ばれていたましたが、

ここに門下生が集い共に生活したといいます。

『世界政府』新聞や雑誌の『コンパ』や『サーナ』を発行し、

女子はこれを売り歩いたのです。

後にMIはCI協会となります「センター・イノグラムス」の略語で

「無知者の本部」という意味です。

桜沢は石塚左玄の考え方に従い、

鳥・魚・卵を少しなら食べてもよいとしていましたが、

晩年にそれらも食べない菜食が正しいという見解に到っています。

桜沢は左玄の陰陽論をヒントに、

食品を「陰性」「中庸」「陽性」に分類することを追求しました。

産地の寒暖や形而上の特徴から

牛乳・ミカン類・トマト・ナス・ほうれん草・熱帯産果実・カリウムの多い

ものなどを「陰性」としました。

玄米・本葛粉(他のデンプンを混合した物は、「中庸」ではない)は

「中庸」、塩や味噌・醤油・肉などナトリウムの多いものは「陽性」と分類しました。

桜沢は当時の科学にも結び付けたと主張していますが、

批判も多い項目です。

また、桜沢は、ルイ・ケルヴランによる生体内で原子転換が起こるという

生物学的元素転換説を支援し、

『生体による原子転換』や『自然の中の原子転換』を

日本とフランスで同時に発売しています。

久司も、生体内で日夜元素が別の元素に変わる原子転換が行なわれていると

主張していますが、このような現象は科学的には否定されています。

桜沢如一は自説を広めるため1929年に渡仏し、

1960年代に渡米して、弟子の久司道夫らとともに

「禅・マクロビオティック」と唱えて普及活動をしました。

アメリカの宗教学者は、この運動は、ニューエイジ運動の一つとしています。

1950年代、久司がアメリカでマクロビオティックを広めようとした頃は、

当時の栄養学と矛盾していることから大きな反発があり、

アメリカ政府によって禁止措置がとられたこともあったようですが、

久司が風土を考慮し再構築したマクロビオティックを広め、

1970年代以降に政府や栄養学会に受け入れられるようになったといいます。

最初は東洋思想への関心から

久司らのもとに集まったヒッピー達と共に

日本のマクロビオティックの食事を日本語の呼び名で広めていったのです。

1977年には、従来の欧米型食生活が生活習慣病の増加をもたらしている

との反省から「アメリカの食事目標(マクガバン・レポート)」

(肉や牛乳の摂取が癌を促進するとされる大規模な疫学調査結果と実験結果)

が打ち出され、それを機に伝統的な和食への関心が高まり、

同時にマクロビオティックの考え方も見直されるようになったのです。

この食事目標の作成にあたって委員会のリーダである

ジョージ・マクガヴァンや、

原案をまとめたハーバード大学のヘグステッド

も久司らと話し合いを行ったとされています。