40日ファスティング経験者の本音!

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少食の現代医学の評価とは 06 マクロビの陰陽の法則は危ない似非宗教

日本は世界にない中国の医食同源を用いた食養法を唱えた石塚左玄(注・01)

がいます。

彼が唱えたのは

 

1・身土不二

2・一物全体食

3・夫婦アルカリ論

 

しかし、58歳で亡くなります。

そして石塚の影響を受けて中国の陰陽論を独自の考え方で色付けたのが

桜沢如一(注・02)が創出した「マクロビオテック」(注・03)という疑似宗教です。

 

(注・01)石塚 左玄(1851年3月6日-1909年)10月17日)

明治時代の日本の医師・薬剤師、であり陸軍で薬剤監、軍医を勤めた。

玄米・食養の元祖で、その食養は食養会につながり普及活動を行った。

福井藩出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。

栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、

医食同源としての食養を提唱する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。

食育食養を国民に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募って

いたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのでは

と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった。

天皇家の献立は食養学に基づいている。

 

(注・02)櫻澤 如一(さくらざわ、ゆきかず・1893年10月18日 - 1966年4月24日)は、日本の思想家、マクロビオティック(食養)の提唱者。

海外ではジョージ・オーサワという。

京都市東山区で生誕した桜沢如一は少年の頃は病弱であり、

誌歌に触れ女子のような10代を過ごしたが、苦学を重ね商業高校、

仏語学校を卒業し貿易商となる。

苦学の時期より石塚左玄の食養にて健康を回復し、

貿易事業と並行して、大和言葉のよみがえり運動の一環で

シャルル・ボードレールの『NAYAMI NO HANA』(悪の華)などを翻訳した。

カメラや撮影機、映写機、放送機など電子機器を扱った商売からは

1924年には手を引き、左玄の食養会の活動に尽力し数十の書籍を出版した。

またその成果をフランスのパリで試しに無銭武者旅行に出発し、

フランスでも著作活動を開始する。同時並行で日本に帰った時には反戦運動を行い、

その目くらましとして健康指導、翻訳活動に身を投じ、

岩波文庫からのカレルの『人間』も当時の活動である。

1937年には食養会の会長に就任するがその2年後には脱会した。

1940年には滋賀県大津市にその食養の理論を東洋思想の易を交えて

独自展開する無双原理講究所を開設。

次第に再び反戦活動へと傾倒していき、戦争がはじまると

軍部や右翼から暴力を受けるが、1945年に日本が敗戦すると世界政府協会を作って、

世界連邦運動に取り組み平和を追求することになる。

その思想の根本には食による健康があった。

再び、欧州やアフリカなど世界旅行によってマクロビオティックの普及につとめ、

各地に団体や食品店が生まれ、1960年には訪米し普及に努める。

日本での団体は、真生活協同組合(1945年設立)、

メゾン・イノグラムス(真生活運動のセンター、1947年設立)と経て、

日本CI協会(1957年設立)となる。

如一の没後は、マクロビオティック料理教室の校長を務めていた

妻の桜沢里馬が同協会の会長となる。

後継者にはアメリカでの普及に尽力した久司道夫、日本では

大森英桜、岡田周三といった人物がいる。

 

(注・03)マクロビオティック (macrobiotics)

従来の食養に、桜沢如一による陰陽論を交えた食事法ないし思想である。

長寿法を意味す。玄米、全粒粉を主食とし、主に豆類、野菜、海草類、

塩から組み立てられた食事である。身土不二、陰陽調和、一物全体といった

独自の哲学を持つ。運動創始者桜沢如一は、石塚左玄の玄米を主食とした

食事法のための食養会に所属し会長も務めた後、思想を発展させ、

また民間運動として世界に普及させた。

他の呼称に玄米菜食、穀物菜食、自然食、食養、正食、マクロビ、

マクロ、マクロバイオティックがある。

マクロビオティックの運動の始まりとしては、

1928年に桜沢如一が行った講習会であると桜沢の夫人が述べている。

現在ではさまざまな分派が存在するが、桜沢如一に端を発した食に関する哲学や

独自の宇宙感に関してほぼ同じ考えを保っており、また各集団も連携している。

マクロビオティックは、むしろ思想に近いものであり、

病状などに即して栄養学的にメニューを調整するといった食事療法とは

根本的に異なり、生活そのものを改善するような平和運動を伴った

思想が根底にあるとされる。

さらに、陰陽思想を食のみならず、生活のあらゆる場面で基礎とすべく、

万物を陰と陽に分類する無双原理という哲学を提唱した。

そして、この独自の哲学を含む食生活運動へと発展させた。

食養会は、時代背景も反映して

「米はウカノミタマや天皇家の象徴であり神聖である」として

食養を奨励し、当時の世論である国家神道

八紘一宇の世界観から平和的な世界統一観を主張していた。

宗教学者島薗進エコロジー運動とよく似た考えや、

宗教的な敬虔さを含んだ日本独自の思想が20世紀初頭にも存在していたという

指摘をしている。また島薗進は個々の現象への陰陽の割り当ての方法が恣意的であり、

食物の陰陽調和や病気に対する対処の根拠について

十分な根拠があるか疑問であると指摘している。

マクロビオティックの運動の始まりとしては、

1928年に桜沢如一が行った講習会であると、

桜沢の夫人が述べている。如一は、1910年代には食養会に入会し、

雑誌『食養雑誌』に投稿をはじめ、1937年には食養会の会長に就任、

1939年、同会を脱退した。同時期1929年よりフランスのパリに渡り、

1931年には本を出版し、各種の新聞や雑誌で鍼灸、華道、柔道、

など東洋について論じた。1940年9月、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設し、

それは後に日吉にできたメゾン・イノグラムスとなる。

メゾン・イノグラムスは、通称MIと略され、

意味は無知者の家、愚か者の家といったところで、世界政府運動も行っていたため、

世界政府の家とも呼ばれたが、ここに門下生が集い共に生活した。

『世界政府』新聞や雑誌の『コンパ』や『サーナ』を発行し、

女子はこれを売り歩いた。

後にMIはCI協会となるが、これはセンター・イノグラムスであり、

無知者の本部といったところである。

当初、桜沢は左玄の考え方に従い、鳥・魚・卵を少しなら食べてもよいとしていたが、

晩年にそれらも食べない菜食が正しいという見解に到っている。