40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

正しい食養生とは何か 60 穀物菜食 22 玄米は完全食なのだが 03 玄米食の欠点 02 米以外が主食だった 

2・米食の歴史

弥生時代だけでなく、どの時代においても、水田を開拓し稲を量産することが、

支配者の中心的な施策でしたどの時代でも、日本の国土における稲作は、

全国民の全食を賄えるだけの生産量をあげることができなかったのは事実です。

つまり、国民全員に米が行き渡らないことが、歴史上長かったわけです。

弥生時代の集落の高床式建物は、全て高床式倉庫であったようです。

人が地面に穴を掘って住んでいたときに、「米」は、湿気か来ず、

ネズミにもかじられず、千木や鰹木で飾られた神殿みたいな建物に

納められていたのです。

米は「神聖にして侵すべからざる」存在として認識されていたことになります。

その後、この高床式倉庫は神明造として、神社の建築に変化していくのです。

律令制においても米は、「租」とされ国庫に入れられました。

国庫に入れられた米は宮廷の官人達が食べるためではなく、

様々な物と交換されたり労働の対価として支払われたと考えられます。

すなわち米は「貨幣」の役割りをしたのです。

古くから「六公四民」とか「五公五民」という言葉があることからもわかるように、

農村においては、収穫した米の半分以上を

非食料生産者(おもに都市住民)に供出する責務を負わされていた史実があります。

「六公四民」、「五公五民」というのは年貢率のことで、

六公四民ならば、六割が領主の取り分、残りの四割が農民の取り分ということです。

農民に納税義務といっても一人一人の百姓ではありません。

江戸時代は村請制といって年貢は村単位で納めたので、

領主取り分と村の取り分の分配比ということになります。

このように、近世の幕藩体制のもとでの年貢米制度は、

そのもっとも極端な例といえます。

米を動かすことができたのは、政治経済の権力者であり、

米は権力の集中するところ、つまり都市部(江戸など)に集められ、

貯えられ、消費されたのです。

時代によりその割合が多少かわりますが、近世・近代を通じて、農村人口は、

ほぼ7割方と考えていいと思います。

日本人の一般的で伝統的な食事の形態は、

農村部のものに求めるのがいいと判断することが多いです。

では、時代ごとの制度として生産量の半分以上もの米を

都市部に供出していた農村部では、どうやって米の不足分を補ったのでしょうか。

日本のほとんどの地方に古くから開かれている畑では、

主食ともなりうる作物が作られてきました。

そして、周囲の山林からも食の恵みがありました。

それらは、以下です。

 

ムギ

アワ

ヒエ

イモ

ダイコンなど

木の実

山菜