40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

サムライ・ファスティングに生きるとは 「代表的日本人」に書かれた武士道精神17 上杉鷹山 02 誓詞に生きる

二つの辞典で紹介したように

まさにサムライ・ファスティングを地で行く上杉鷹山ですが、

内村鑑三の紹介記事は実に優れた筆で見事に鷹山公の若き日を描いていきます。

 

・・・鷹山が、今の羽前の国にあたる米沢藩家督を相続したのは、

弱冠17歳のときであった。九州の小大名である秋月家に生まれた鷹山は、

自分の家よりも格が上で、領地も大きい上杉家の養子となった。

しかし、養子となったのは鷹山にすれば有難迷惑だった。

全国でも例がないほどの重責を担わされることになったからである。

・・鷹山は他の身分の高い家柄の子弟とは異なり、

師の言うことを素直に聞く生徒であった。

その師である細井平洲はすぐれた学者で高潔の士であった。

・・藩主となる日のこと、鷹山は春日神社に次のような誓詞を奉納した。

 

1・文武の修練は自ら定めたとおり怠りなく励むこと

2・民の父母となることを第一の務めとすること

3・次の言葉を日夜忘れないこと

  贅沢なければ危険なし

  施して浪費するなかれ

4・言行の不一致、賞罰の不公平、不実の無礼を犯さぬように慎むこと

これを今後、固く守することを誓う。もし怠るときはただちに神罰を下し、

家運を永年にわたり消失されんことを。

そしてこの男は、他の人間ならとても引き受けないような仕事に直面することになる。・・・

 

 

内村は4つの鷹山の誓いを紹介していますが、

その誓いに固く立った指導者が日本に存在したかと思うほど

徹底した改革に臨んでいきます。

上杉家は越後に膨大な土地と強力な勢力を誇っていましたが、

秀吉により、会津に移されますが、それでも100万石ありましたが、

関ヶ原の戦いで反徳川につき米沢に移され、15万石となります。

ところが100万石の家臣を抱えて、財政は圧迫し、その負債は膨大となり、

領民はその負債のゆえに厳しい年貢で逃げ出し、貧困が米沢を襲います。

藩の総力をあげてもごくわずかの金策しかできない状態でした。

ウィキにはこの状態をこのように書いています。

 

上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)

に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら

初代藩主・景勝の意向に縛られ、

越後120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、

家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、

このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。

そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。

深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、

「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい?

「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。

さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」といった

洒落巷談が流行っていたほどである。

加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、

宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。

名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、

藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。