40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

年始特別寄稿 06 ファスティングの真価は霊的領域に到達することにあり 

私は今年、72歳です。

日本では、干支で寅年でしかも2022年は五黄の寅年です。

五黄の寅は36年に1回訪れ、前回は1986年で、その前が1950年なので

私は五黄の寅年生まれです。

私はクリスチャンなので一切、占い的な干支は信じていませんが、

2022年は私も一つの区切りであるという感がしています。

なぜなら超少食ファスティングリアル店舗である

「古民家ファスティング藤樹の宿」が5周年を迎えるからです。

2017年6月3日がオープンなので2022年6月3日で丸5年となります。

5という数字は変化の数字だともいわれていますが、

確かに5年ごとに私はこれまでより良い方向へ行くための

重大な変化が起こっていく区切りを体験してきました。

ですから2022年は何か、起ころうとしています。

「断食救人類の書」にも書きましたが、

私は断食祈祷院を23年間、運営して兎に角、ほとほと疲れ果て、

リタイヤメントし、安住の地、

日本のガリラヤ湖といわれる琵琶湖畔の地に移住してきました。

そして夫婦でできる範囲で断食施設を関西の一角である滋賀県の湖西地方、

高島市でオープンし5年目です。

この地に移住することを決めた最大の要因は、高島市安曇川町は、

中江藤樹生誕の地であったことです。

今年、9月に高島市新旭町出身で桜美林学園を創設した清水安三(注01)が書いた

中江藤樹キリシタンであった」(著作集)を読みました。

私の住む安曇川町南船木から北西3kmに中江藤樹記念館、

塾があったとされる良地館、藤樹神社がありますが、

彼を神社に祭ったこの地方では、

誰も「中江藤樹キリシタンであった」とは認めていませんが、

清水安三は著作の中で明確に中江藤樹

間違いなく隠れキリシタンであったと確証しておられます。

それが事実であれば私が中江藤樹に惹かれ、

この安曇川町に来たのも主の導きであったということです。

今、不思議なファスティングブームが起こって、

断食施設に参入する会社が相次いでいます。

おそらく関東並みの競争に来年は入っていくことでしょう。

そのためには何で差別化するかです。

私はファスティングの奥義を提供することだと思っています。

しかも、中江藤樹のような陽明学の思想のように、

どこにもない断食思想です。

今、断食(ファスティング)ブームなのは、

大半の目的がダイエットなのです。

しかし、断食(ファスティング)の神髄は、霊的(スピリチュアル)の分野で、

その奥義を提供することに特化していきたいのです。

実はオープンした5年前から準備していたことで、

昨年、コロナで「リモートファスティング」を立ち上げ、

今年、「ビールファスティング」を立ち上げました。

これは修道院から誕生したファスティングなので、

日本では初めてのファスティング方法なのです。

これを推進するためには、断食祈祷の奥義にいくしかありません。

私は1995年からその奥義を求めてきましたが、

27年経てもその領域に到達していません。

どうにかしてそこに到達したいと

琵琶湖周辺の私の祈り場にひたすらシメオンのように祈りにいく日々が

この5年間、続いています。

すぐに結果はでないかもしれませんが、

それが私の今、最もしなければならないことです。

豊田の断食施設を運営していた時に発行した

「カミング・リバイバル」と「ファスティング・ブライド」に次ぐ

第3番目の霊的な領域に到達した本を出せるような年になるよう精進していきます。

 

(注01・清水 安三)

まずウィキからの引用です。

清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者・牧師。桜美林学園創立者。現在の滋賀県高島市に生まれる。近隣に陽明学者の中江藤樹が住んでおり、幼少期より叔父に「将来は中江藤樹のような人になりたい」と度々言うなど中江に憧れていた。中学時代にウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、同志社神学校に進学[1]。この時、新島襄に強く影響を受けたとされ、後の崇貞学園や桜美林学園開学の際に自らの教育モデルとしたと言われる。更に渡米しオーバリン大学に学ぶ(オーバリンの名前は後に彼が創立する桜美林学園の名の由来ともなる)。1915年、同志社大学を卒業したその年、教会で聞いた殉教の話に感銘を受け中国行きを決意。1917年に日本人宣教師第1号として中国・大連へ渡り布教活動を開始。(途中略)自著『石ころの生涯 崇貞・桜美林物語』にて自らを「石ころ」と称している。これは清水が中学生時代に、自分以外の親友の成績はとても優秀だったが、彼らと比べると自分はいつも劣等生だったからとの事である。やがて意気地もなくなり、そのコンプレックスが当時の清水の大きな悩みとなっていた。やがて神学を専攻する様になった清水はある教会で牧師の「神は同志社のキャンパスに転がっている石ころさえも新島襄となせる」という言葉に深く感銘を受け、「神はこの石ころのような劣等生清水安三すらも、なお同志社創立者新島襄となしうる」と考えるようになったと言われる。生前、歌人として使っていた雅号「如石」には、そのような思いが込められているとの事。・・・

という記事が書かれています。

清水が幼い時から中江藤樹のようになりたいというビジョンを持っていたことが、

後に「隠れキリシタン中江藤樹」を書くことになったのです。

そして同志社大神学部で宣教師として中国にわたり帰国してから

桜美林大学を創設しています。

中江藤樹隠れキリシタンであった証明は、

何と賀川豊彦の命令であったと序文にありましたが、

清水は彼の残した文章を徹底的に読みこなし、みごとに証明に成功しています。

清水は賀川豊彦桜美林学園創設時に支援してもらったこともあり、

その仕事を引き受けたと序文にありました。

その証明の通り、中江藤樹がクリスチャンならば、

彼の残した文章はすべてキリスト教精神であると同時に

聖書の言葉に裏付けされていくはずです。