40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

玄米菜食 119 玄米菜食の玄米はいかなるものなのか 15 江戸病(脚気)が生まれた背景 02 

明治10(1877)年の西南戦争でも、「脚気」患者が多発。

その原因や治療法を探るため、翌年には、府立脚気病院が設立されました。

しかし、この病院ははっきりとした成果を出すことなく、

すぐに幕を閉じることになりました。

当時、経験的に「脚気」が食事で改善することは一部で知られており、

皇族も脚気にかかりましたが、漢方医の提唱する麦飯を食事に取り入れ、

克服したと言われています。

しかし、明確な科学的根拠が示されることはなく、

治療法は確立されていませんでした。

特に明治になって誕生した軍隊では、多くの兵士が同じ食事をとることもあり、

大勢の脚気患者が発生。

亡くなる兵士も多く、大問題となっていきました。

江戸時代末期、日本は鎖国を解き、世界への扉を開きました。

そして明治政府は西洋諸国に対抗するため、

「富国強兵」と「殖産興業」政策を推し進めていきました。

徴兵されたのは多くが農家の若者でした。彼らにとって、

軍隊での最大の魅力は1日6合の白米を食べさせてもらえることでした。

ところが、白米が食事の大部分を占め、副食が乏しいこの食事スタイルこそが、

ビタミンB1不足を招き、軍隊内に「脚気」の患者を増やすことになってしまったのです。

「江戸わずらい」と呼ばれるように都市部に多かったこの病気は、

この頃から全国に広がり、国民病となっていったのです。

近代的国家を目指す明治政府は、欧米の生産技術や制度を導入し、

鉱工業や鉄道、電信等の事業を主導していきました。

中でも象徴的なのが官営富岡製糸場です。

先進的な器械を使って生糸の生産量を大幅に増やし、輸出量を拡大しました。

ここでは全国から集まった工女たちが働き、

やがて地元に戻って技術を広めることに貢献しました。

こうして製糸業は全国に広がり、

1890年代、繊維産業の輸出に占める割合は50%以上になりました。

当時の記録によると、富岡製糸場では、

朝、昼、夜の3食が提供されていたそうです。

これが働く人を対象とした初めての給食制度だと言われています。

白米を中心とした給食は、当時としては恵まれていたと言えますが、

田舎で雑穀を食べていた工女たちに

脚気の症状をもたらすというマイナス面もありました。

最盛期には、農家の4割が養蚕を営んでいました。

製糸業が盛んになるに従って、蚕の餌となる桑の葉が必要になり、

それまでビタミンB1の補給源だった雑穀畑が次々と桑畑に変わっていきました。

また、経済の発展により、農家の人々も貨幣収入が得られるようになり、

白米を食べる習慣が広がっていきました。

これらの要因により、都市に多かった「脚気」が国全体に広がってしまったのです。

明治時代、海軍では、脚気で亡くなる軍人がたいへん多かったと言います。

そのため、海軍軍医であった高木兼寛は、

その原因を探るため、世界初の疫学調査を行いました。