40日ファスティング経験者の本音!

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サムライ・ファスティングに生きるとは 「代表的日本人」に書かれた武士道精神23 二宮尊徳・農民聖者 01 二宮尊徳とは何者か

内村鑑三の「代表的日本人」の3番バッターは二宮尊徳です。

薪を背負って本を読みながら歩く姿の少年時代の二宮尊徳像を思い出す人も多いでしょう。

まずどのような人物なのか、朝日日本歴史人物事典から引用します。

 

二宮尊徳にのみやそんとく)

 

[生]天明7(1787).7.23. 相模,栢山

[没]安政3(1856).10.20. 下野

 

江戸後期の農政家,報徳主義の創唱者。

通称金次郎,諱は尊徳。身長5尺5,6寸(167~170cm),筋骨たくましい偉丈夫と伝えられる。

相模国足柄上郡栢山村(小田原市)の百姓利右衛門,よしの長男。

14歳で父を失い,その2年後に母が死に,伯父の家に預けられたが,

奮励努力して没落した生家を20歳で再興した。

文化9(1812)年小田原藩家老服部十郎兵衛家の若党となり,

文政1(1818)年服部家の財政立て直しを依頼され,

倹約と借入金の運用によりそれを成功させた。

同5年その功により小田原藩に登用され,

藩主の分家旗本宇津氏の領地下野国桜町領(栃木県真岡市,二宮町)の

難村復興を命ぜられ,天保8(1837)年にかけて報徳仕法のモデルといわれる

桜町仕法を施して成功。

天保4年以降,旗本川副氏の領地

常陸国青木村,細川氏の谷田部・茂木藩,宇津氏の一族である

大久保氏の烏山藩,石川氏の下館藩,真岡・東郷両代官所支配の幕領,日光神領など,

現在の茨城・栃木県下の北関東各地の仕法を手がけた。

のちに二宮門四大人と呼ばれる富田高慶,斎藤高行,福住正兄,岡田良一郎

いずれもこの間に教えを受けた門弟である。

子の弥太郎尊行も尊徳をたすけ,娘文子は富田高慶に嫁した。

尊徳は晩年,御普請役格20俵2人扶持の幕臣に取り立てられ,

日光領仕法中,下野国今市で病没。

これらの領主層から依頼され領主の趣法あるいは

主法として行った難村復興事業を行政式仕法というが,

そのほか地主,豪農が中心となり,

村民の自主的な組織である報徳結社によって

報徳の教えを実践する結社式仕法が各地に普及した。

報徳仕法が成功した要因のひとつは,事前に詳細な調査を行ってプランをたて,

領主をはじめ地主,農民の分に応じた消費を規定した「分度」を画定し,

余財を自己の将来や他人のために「推譲」することとし,

報徳金と称する領主と農民との中間に位置する資金を創設運用したこと,

もうひとつは,窮乏する共同体の経済から上昇農民の自立を目指す「勤労」

エネルギーを褒賞制度などによってひき出したことである。

もともと報徳思想は神儒仏3教の折衷より成るが,

自然の天道に対し衣食住を生み出す人道を対置し,

生産労働と生活規律を重視するなど,

民衆の生活意識に根ざす規範を創出した点に

新時代へ向けた思想化をみることができる。

明治以降,内村鑑三『代表的日本人』(1894)などは,

経済行為の基礎としての道徳を説いた尊徳を肯定的に評価した。

他方,明治政府は国民教化の観点から尊徳を顕彰し,

明治37(1904)年以降,修身教科書に孝行,学問,勤勉,精励,節倹など,

多くの徳を備えた人物として登場させた。

昭和初年以降,小学校校庭の「負薪読書」の金次郎像も一般化する。

これらは貧しい民衆の能動的エネルギーを開発しつつ,

これを体制内にとどめおこうとする支配層の意図にもとづく。

戦後の一時期,平和と民主主義のシンボルとしての

二宮尊徳像が再生し,1円札の肖像案(1946)ともなったが,

今日でも勤倹節約の模範人物としてのイメージが強く残っている。