40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

断食指導30年のあゆみ 33 本物の断食とは何か 15 修道院の断食から生まれたチョコレートファスティング

ビールがそうであったように修道院では

厳格に断食を厳守する修道士ばかりではなく、

知恵を出して抜け道を考案したのです。

たとえ修道士であろうとも食の誘惑に勝つ者は少数であったようで、

カトリックはその誘惑から退廃していくことになります。

断食の規定では肉と卵、乳製品も禁止です。

しかし、甘いものは禁止されていませんでしたので、

ミツバチを修道士たちは飼い、中世の修道会では養蜂技術が発展していきました。

そして蜂蜜を使用したお菓子がつくられあのアッシジのフランチエスコでさえ、

臨終の床でアーモンドと蜂蜜をからませたお菓子を食べたいといったといいます。

またヨーロッパでは中世以降の修道院で、蜂蜜でつくった

ロウソク(ミツロウ)を作られてきました。

また南アメリカに派遣されたスペインの修道女が原住民は

まずいとう飲み物に注目し、その飲み物からチョコレートを創造したのです。

この時にローマカトリック教皇はチョコレートを飲むことは

断食の掟を犯していないと通達を出しました。

それがチョコレートブームに火をつけたのです。

そしてヨーロッパの修道院では、

40日断食期間中にチョコレートを飲む習慣が根付いていきました。

日本チョコレート協会のサイトに次のような説明がありました。

 

・・アステカ王国を滅ぼした人物として有名ですが、

スペイン国王カルロス一世に宛てた書簡で、

「このカカオと申すものは、粉にして売られ、大変珍重されているものであります。

当地では広く貨幣の役割を果たし、市場でも他の場所でも、

必要な物をすべてこれで買うことができます」と

 

カカオの有用性を報告しています。

スペインにいつチョコレートが伝わったかルートや正確な年月はわかりません。

新スペインとスペイン本国の間は、

貴族・軍人・聖職者・官僚・商人などの様々な人の往来がありました。

これらの多様なルートを通じて、新スペインで庶民にまで広がっていた

チョコレート飲料がスペイン本国に伝わったと考えられます。

また、修道院組織や聖職者組織が大きな役割を果たしました。

1534年にピエド修道院でヨーロッパ最初のカカオが調理されたといいます。

1544年にドミニコ会修道士たちがマヤ族の貴族を伴ってスペインを訪れ、

フェリペ皇太子に謁見した際に、泡立てたチョコレートを用意していました。

スペインに輸入されるカカオは少量であり、しかも大変高価だったため、

チョコレートを享受できたのは王侯貴族や上層階級に限られました。

アステカの特権階級の嗜好品であったカカオ飲料が庶民に広がったのは、

アステカ王国が滅びスペインの植民地(新スペイン)になってからです。

アステカ王国滅亡後も新スペイン各地からカカオの貢納は続き、

スペイン人がそれを受け取りました。

新スペイン社会の中にカカオの循環径路が作られ、

カカオ飲料を飲む習慣が広まっていくと、

カカオ飲料は大衆的な飲み物となりました。

アステカ王国で上層階級が親しんでいたカカオの品種は

クリオロ種でしたが、スペイン征服後は生産量が多くより安価な

フォラステロ種が広まり、大衆化に貢献したようです。

新大陸にやってきたスペイン人と現地の文化との交わりが発生し、

新スペインでは多くのスペイン人家庭の食生活に

チョコレートが取り入れられたといいます。  

新スペインに砂糖が入ってきたのは1522~1524年頃とされ、

この頃チョコレートが甘い飲料になったようです。

これまでアステカ族が甘味を加えず飲んでいたチョコレートは、

白人たちの大変革により熱く砂糖で甘味を加えられたものになりました。

(チョコレートが熱く甘い飲物になったのは

スペイン本国へ伝播してからという説もあります。)

また、アステカの戦士たちの利用法を応用し、

カカオ液を固形にして貯蔵や運搬を便利にしました。