40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

玄米菜食 67 玄米菜食リバイバルを起こそう 25 敗戦でアメリカに胃袋を完璧に支配された 02 全国でパン教室を開催していく戦略は大成功

第一弾はキッチンカーはアメリカの戦略でしたが、

これを推進したのは日本の政治家でした。

当然、背後にアメリカの情報部が操作をしていたことはいうまでもありません。

日本ではこれを推進したのは「財団法人・日本食生活協会」でした。

これは厚生省の外郭団体です。

国民の栄養水準を高めることが目的です。

確かに太平洋戦争中、食糧は海外から入らず、栄養失調で結核などが蔓延したので、

アメリカの提案に飛びつきました。

これまでの日本の食生活は、米、みそ汁、漬物、野菜の煮たものと魚が標準でした。

そこに今まで見たこともない分厚い肉、

そして焼きたてのパンやホットケーキ、温かいミルク、コーヒー

に日本人は驚き、受容していきます。

キッチンカーに参加した5万人のアンケート調査記録が残されています。

それによれば99%が満足と答えているのです。

そしてアメリカの第二弾戦略が開始されます。

それは今まで日本の存在していなかった製パン技術者の養成をして、

全国にパン屋を増やし、パンを日本中、遍く普及させることでした。

1956年、全国から募集を開始し、パン教室で

1年間で200以上の会場で養成講座を開催したのです。

パン屋というのは新宿・中村屋ぐらいしかなかったのです。

この中村屋は1901年(明治34年)12月 - 現文京区本郷の東京大学正門前にあった

パン販売店中村屋相馬愛蔵・良夫妻が買い取り、

個人経営で創業し、繁昌していきました。

創業以来、妻の相馬黒光とともに独創的なパン・食品を作り続けていきます。

1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンである

クリームパンを考案します。

1927年には現在の中華まんのもととなる「中華饅頭」を発売。

これが現在の中華まんの始まりとも言われています。

また、1918年に娘がインドの独立運動家の

ラス・ビハリ・ボースと結婚をしたことから、

ボースから米(白目米)や鳥(軍鶏)にまでこだわった

本格的なカリーの調理を学び、1927年当時の日本では

珍しい純インド式カリーを販売しています。

本店のカリーのキャッチフレーズ「恋と革命の味」は

ここから生まれ、引き継がれています。

フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎や、

山﨑製パン創業者の飯島籐十郎も相馬のもとで働いています。

新宿本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していたのです。

その中にロシアの童話作家ヴァスィリー・エロシェンコもおり、

彼がレシピを伝えたボルシチカリーと並び

本店レストランの開店以来の人気メニューとなっています。

ようするに文化人など東京の上流階級の人たちの食べものであったパンを

全国に普及させようとしたアメリカの戦略は着々と進んでいきます。

さて、この教室に通った人たちが後に全国のパン会社を創業したり、

役員になって活躍し、アメリカのパン戦略は見事に大成功していくのです。

彼らはこの教室で来たるべき日本の食の豊かな未来を描いて学んだのです。

このようなムードは私もかつて経験しました。

それがアメリカからバブル時代前の1985年に入ってきた

ファイナンシャル・プランナー養成講座の第1期生として学んだ経験があります。

金融関係を中心に物凄い熱気がありました。

その熱気が後の国家資格となって、日本に受容されていきますが、

それは1988年からのバブル創出の片棒を担いだことになります。

それと同じことがこのパン教室だったのです。