断食救人類の書 253 少食は救国、救人類となる 39 少食で食糧危機に対応可能 10 もし食糧閉鎖されたら 05
3・マッチの配給
マッチは1939年頃から不足が目立ちはじめ、先ず大箱の徳用から姿を消し、
ついに食堂などのサービスマッチがなくなりました。
1941年配給制度になり、一日5本で質の低下でマッチをすっても不発になり
軸木の折れ易いものや、短かいものになって行き、節約して大事に使うようになったといいます。
それでも足りないので、火種を絶やさないように炭火を灰に埋め大切にしましたが、
その木炭も手に入り難くなっていきました。
4・衣料の配給
戦前は化学繊維のない時代でしたから、外国依存度の高い綿花、
羊毛、ゴム等の輸入が困難になると衣料事情は急速に悪化して行きました。
1942年から衣料切符制度が行われ、大人一人の年間点数を、都市で100点、農村で80点と定められ、
背広50点、婦人ワンピース15点、ワイシャツ12点、モンペ10点、手袋5点、足袋2点、くつ下1点、小幅織物一反24で
戦前消費の40%を目標に定めた割り当てでしたが、
戦争の長期化で点数が削減されて、しまいには、
実質的には戦前の20まで需給が悪化していきました。
品物はスフ、人絹など粗悪なものばかりで、
耐久性、保温性が劣るので、衣生活は極度に窮屈なものになっていきました。
古い衣料を再利用とかタンスからよそ行き着物を作業衣にしたりしたものの
補修用の縫い針が足りないので主婦たちは辛く情けない気持だったということです。
太平洋戦争末期から戦後にかけて、
繊維資源として野生の、イラクサを採集したり、大麻を栽培して利用していたということです。
5・灯火用石油
農村には電化が進んでいない時代でしたから、
家庭のランプや畜舎や農作業用安全灯に必要な石油は配給を受けなければならなくなりました。
はじめの頃は2戸に1ケ月1升でしたが、
次第に減って1合も来なくなってしまったようです。
石油類は国内のストックしかなかったのでしょうから、
止むを得ない措置でしょうが、国の方針としては家庭の灯火用を削って、
農産物の脱穀調製用として、
田畑面積を算定基礎にして1ケ月に1升か2升ずつ農事組合を通じて配給になり、
配給を受けた農家では貴重品扱いをして貯え、発動機を動かし、
経営面積の少ない農家では、脱穀は足踏式や人力で行ない、
石油はランプや安全灯用に転用することにしていたようです。
家庭用ランプの石油の代用には、ローソクが配給されたりしましたが、
とても必要量を満たされませんでしたから、
部落に居住する非農家の家庭が一番暗い生活でした。
都市に住む電灯家庭でも電力不足による電圧の低下は、
ローソク送電になったり、時には、線香送電と言って、
電球のありかが分るだけで照明の用をなさないこともあったのです。