断食救人類の書 252 少食は救国、救人類となる 38 少食で食糧危機に対応可能 09 もし食糧閉鎖されたら 04
配給制度の行き詰まりで闇市が横行し、ようやく沈静化しましたが、
日本国中の食料難は深刻な状態でした。
しかし、GHQが確保していた食糧の放出緊急輸入食糧が認められたことや
ララ物資などでどうにか食料難は解決していきました。
1946年の日本人一人当りの摂取カロリーは、1448Calで小学校では欠食児童が多く、
発育盛りの小学校6年生男子の体重が28.8㎏です。
またエンゲル係数(家計支出に占める食費の割合を現わす)が、72%。
10年後の1955で45%、1965年で28%ですから、
食料難の深刻さがこのような数字に出ています。
苦しい配給事情の対策として、一般家庭では庭先きの花畑を掘り返したり、
猫の額ほどの空地も耕して、いも、南瓜何でも作って配給不足を補おうと努力しました。
町内会や職場の人達も共同で、鉄道用地や奥地部落で傾斜地のやせた不作付地を借りて、
自活畑として耕すことに汗を流したりしました。
こんな食糧情勢の中で、農村には昔から、
娘は町にお嫁にやりたいと思う人が多かったのに、娘の一人は稲作農家に、
一人の娘も食物関係の職業にと考えるようになったという状態でした。
配給は日中戦争から太平洋戦争敗戦後も継続され、
日用品のあらゆるものに及んでいます。
主なものを見ていきましょう。
1・砂糖の配給
砂糖は国内需要の大半を輸入に依存していたので、海外からの入手困難が予想される中で、
早くも1940年七月から切符制がとられ、一人一ケ月240gに規制され、
年毎に減らされて敗戦の頃には配給は殆んど皆無になります。
お菓子屋さんの店先からも、お菓子が姿を消し閉店に追いこまれたのです。
そればかりではなく、調味料として使う砂糖や、
人工哺乳児から病人用すら満足に与えられなくなりました。
重病人や人工乳児をかかえ、どうしても砂糖がほしい時には、
公定価格の80倍の闇値でやっと手に入れることが出来たのです。
農村の一般家庭で、ビートを煮詰めたり、麦芽と澱粉で水飴を作っていたのです。
2・酒類の配給
お酒は1941年から配給統制が行われ、
一世帯当り1ケ月酒4合、ビール2~4本、但し冠婚葬祭については一回1升、
入営、出征の場合は2升の特配がありました。
洒の配給は平等割でしたので、一たん配給を受けてから、ゆずり合ったり物々交換によって、
ほかの必要品を手に入れる手段としたので、
愛酒家にとっては有難くない結果を招き、いわゆる闇酒の横行となり値段はつり上がり、
水増しのいかがわしい酒が現われたりしました。
敗戦後、酒が飲みたくて少しなら大丈夫だろうと思って、
工業用や、試験室や理科実験室からメチールアルコールを持ち出して飲み、
命を落した人も多く出ました。
窮余の策として「どぶろく」と言う密造酒作りが流行して、
中には味も透明度も本物に劣らぬ逸品を造る名人クラスが現われています。