40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

断食救人類の書 251 少食は救国、救人類となる 37 少食で食糧危機に対応可能 08  もし食糧閉鎖されたら 03

敗戦後の日本は食糧難がますます深刻な事態となっていきました。

兵役からの復員や外地からの引揚げなどで都市人口は急増し、

まったく輸入が途絶えてしまい日本政府の統制物資がほぼ底を突き、

物価統制令下での配給制度は麻痺状態に陥っていたのです。

爆撃による交通網・流通網の損壊により

農村部の抱える食糧も流通が麻痺して都市部に住む人たち欲する食料や物資は

圧倒的に不足していたのです。

食料難は深刻を極め1945年の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人。

大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者が出ていました。

1947年には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官の餓死された事件もあったのですが、

国民はほどんど全ての食料を統制物資とした食管制度のもとでは、

配給以外に食料を入手することは違法行為でした。

ユニセフや占領軍の主体となったアメリカによる援助もあったものの、

深刻な不足を埋めることはできず、

このため人びとは満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、

米やサツマイモのヤミ物資を背負って帰ったが、

依然都市部の人びとの食事は雑炊が続き、米よこせ運動が各地で勃発していきます。

1945年11月1日に「餓死対策国民大会」が日比谷公園で開催され、

1946年5月19日の食糧メーデーには、25万人の労働者が参加して

「飯米獲得人民大会」が開催されています。

このような状況の下で、戦時中の強制疎開や空襲による焼跡などの空地でヤミ市が始まります。

敗戦から4日後の1945年8月20日新宿駅東口に開店した露天市がヤミ市の第1号が誕生し、

その後雨後のタケノコのように各地にヤミ市ができていきました。

しかし食糧管理法はまだ生きていたので、

配給以外で入手した食料は当局によって没収されました。

空地の出店はテキヤなどの組織が地割を取り仕切るようになり、

ゴザや筵、よしず張りなどでお互いの境界を区切り、地面に品物を並べる店や、

台上に品物を並べる店のほか、

食事や酒を提供する移動式の屋台も存在するようになっていきます。

やがて焼け残った廃材などでバラック建ての店が建設されていきます。

1948年10月、主婦連合会が発足。主婦たちはしゃもじを旗印とし、

食料不足の解消を訴える活動が開始されました。

翌年、1月1日から主食配給は、

380グラムに増配され、人びとの食生活は落ち着きを取り戻していきました。

1949年4月1日には野菜の統制が撤廃され、

6月1日にはビアホールが解禁になり、また東京の飲食店も再開します。

1950年4月1日、水産物の統制が撤廃されました。

同年12月1日、池田勇人蔵相の答弁が「貧乏人は麦を食え」と発言し、

いまだ白米が行き渡らぬ家庭の反感を買い、

1951年10月25日には麦の統制撤廃が閣議決定されます。

これをもって米以外の食品は全て自由販売となり、ヤミ物資ではなくなり、

東京都内の常設露店は廃止となり、ヤミ市は姿を消していきます。