武士道が生まれた背景 03 新渡戸稲造の「武士道」精神とは
サムライ・ファスティングを今後、連載するには
新渡戸稲造が世界的な名著「武士道」をまず紹介していきます。
ウィキで新渡戸稲造の「武士道」について書かれている箇所からまず紹介していきましょう。
・・・新明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、
武士は事実上滅び去った。実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、
武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。
ところが、日清戦争以降評価されるようになる。
武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。
新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実(人種差別など)に衝撃を受け、
同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。
新渡戸は近代において人間が陥りやすい根っこにある個人主義に対して、
封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として
己を認識していたことを指摘している。
無論これは新渡戸の考えである。
同時に新渡戸にとって武士は国際社会において
国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに
最適のモデルであったとするのが今日の一般的な見方である。
そのため彼の考えを正当とされるよりも、批判がなされることもあった。
新渡戸を含めたものたちにとって
日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり
武士道はその内の検証の一つとされている。
正宗白鳥は短編の評論『内村鑑三』(昭和25年(1950年))の中で、
自分の青年期に出会った内村を心の琴線に触れる部分はあったが
概してその「武士道」の根太さが大時代な分だけ醒めた視線で見ていたと率直に表現している。
新渡戸稲造は現地の教育関係者との会話において
日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、
1900年にアメリカ合衆国でBushido: The Soul of Japanを刊行した。
本書はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、
多くの海外の読者を得て、明治41年(1908年)に
『武士道』として桜井彦一郎(鴎村)が日本語訳を出版した。
さらに、昭和13年(1938年)に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により
岩波文庫版が出版された。
『武士道』においては、外国人の妻にもわかるように
文化における花の違いに触れたり19世紀末の哲学や科学的思考を用いたりしながら、
日本人は日本社会という枠の中でどのように生きたのかを説明している。
島国の自然がどのようなもので日本独特の四季の移り変わりなどから
影響を及ぼされた結果、日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や
信条というモデルケースから醸成された過程を分かりやすい構成と
言葉で読者に伝えている。
例えば、武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い忠義を信条としたことに触れ、
家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、
これらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、
この機微は外国人には理解できないものであろう、といったことを述べている。
しかしこれは新渡戸独特の考えであり、彼の思想を批判する書も出されている。