ファスティングと断食の違い 02 断食の言葉を重くした理由
断食が宗教とどうしても切れないものなので、とくに日本では、非宗教化されていない国なので断食することが宗教に入信するとか勧誘とか警戒心が強い言葉として響くようです。
しかし、このブログの「ファスティング入門」で書きましたように、宗教から始まったことは歴史的な事実なので、断食と宗教とは切ってもきれない関係になっています。
日本で特に断食の言葉を重くしているのが、天台宗・比叡山延暦寺で行われる修行で千日回峰行です。
これは、堂入りと呼ばれる荒行で、足かけ9日間の断食、断水、断眠のかなり厳しい修行がテレビなどで放映されますので、断食は荒行というイメージがあるようです。
高島市に来て驚いたのは、「断食施設するとは、お前は禅の修行をするところなのか」と聞く方が多いのですが、座禅は断食ではありませんし、禅宗系寺院で断食はしていないようです。
しかし、断食はそのような荒行なのでしょうか。
日本古来からの神社宗教などアニミズム(自然宗教)系では、断食という荒行はありません。
やはり日本に仏教が渡来してから、断食という荒行が導入されたわけです。
しかし、断食は日本のような重い修行だけものでしょうか。
同じ修行でも明るい断食を伝えるのは「修道院の断食」を読んでいただければ分かりますように、キリスト教のカトリック修道院の営みに中で修道士たちが、歯を食いしばって食を断ってはいないことをお伝えしました。
ごく自然に断食が日常のように行われ、それが2000年間も続いていることです。
また、キリスト教とイスラム教のベースになっていますユダヤ教でも暗い断食ではありません。
また、イスラム教では、「ラマダーン」という全世界一斉の断食期間があります。
この期間は、単に食べ物と飲み物を断つだけではなく、断食は嘘をつく、騙す、下品な話、口論、喧嘩、淫らな思考をしないことも含まれ、断食中は良い振る舞いをしなければなりません。
また、断食によって貧乏で空腹な兄弟が感じるものを感じることで連帯感を生むために、この期間は、寄付を行い、貧しくて食べることができない人々の苦しみを理解し、そうした人々のことに思いを至らせるという期間なのです。
このように断食は暗いのではなく、宗教が日常的になっているユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、断食は明るく、そして日常のことであり、特別なことでもなんでもありません。
普通のことなのです。
日本が暗い断食の束縛からいつ自由になれるのでしょうか。
私は日本人を縛っている宗教観が非宗教化されなければ、できないと思います。
では非宗教化とはどのようなことでしょうか。
それは人間教、世間教、そして体制化し、慣習化した宗教が非宗教化されなければならないということです。
非宗教化を人類で最初に成し遂げたのは、アブラハムからの古代イスラエルでした。
しかし、次第に宗教化して、ユダヤ教となり、それを打破したのが、キリスト教でした。
そしてこの2000年間、宗教化するものを打ち破る改革運動が誕生し、断食はさらに違う領域に進化していきました。
残念ながら、日本だけがそのような欧米の歴史を全く理解できていません。
実に憐れむべき、悲しいことですが、それも含めて、明るい断食をファスティングとして広める責務が、私たちの施設、「古民家ファスティング藤樹の宿」の使命です。