40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

ヒルデガルトファスティング 07 現代に生きるヒルデガルト 03 十字軍の誕生 

ヒルデガルトの誕生した1098年のヨーロッパは十字軍(注・01)開始前後になります。

1095年11/18、聖マルティノの日に教皇ウルバノは、東方の同胞を助け、

聖都エルサレムを奪回することを提唱した日です。

その教皇の呼びかけに民衆が自発的に応えて動き始めたのです。

ここまで至るまでに聖都エルサレムが1009年に破壊され、

トルコのセルジューク朝(注・02)は完全にイスラム化して、

東ローマ帝国軍は壊滅。アルメニア、アンテオキアも壊滅してしまいます。

そして地中海を超えて西欧諸国に助けを求めることになります。

アラビア諸国は「西欧はもはや板にすがっているにすぎない」と嘲笑したといいます。

その時代に教皇ウルバノの呼びかけに教皇の予想を遥かに超え、

ヨーロッパ全域に大きな運動となり、騎士や大小の領主たちが「十字架をとる」と

叫びをあげて、そこに大勢の農民、都市住民たちも加わり、

大規模な聖地奪回の戦争が開始されたのです。

フランスでは隠遁者ピエール(注・03)たちが聖地エルサレムをめざしたのですが、

無秩序のために敗れて敗走したりしましたが、

さすが領主たちは秩序ある軍隊でコンスタンチンノーブルで合流し、

3年かかってアンテオケキア、使徒パウロの出身地タルソスに聖堂を建設開始します。

 

 

十字軍(注・01)

11世紀末から13世紀にかけて8回以上にわたって西欧キリスト教徒が東欧、

中近東各地に向けて行った軍事遠征の総称。

公式遠征のほかに民衆巡礼団の自発的行動や、中近東の十字軍国家を起点とする

近隣地域への進出なども広義の十字軍に含まれる。

また、13世紀末以降16世紀に及ぶキリスト教諸国と

オスマン・トルコ帝国との戦争をも十字軍とよぶことがある。

参加者が衣服に十字架の印をつけていたことから、

13世紀後半以来この名称が用いられたが、それ以前の史料には

エルサレム旅行」または「聖墳墓詣(もう)で」などと記されている。

日本大百科全書(ニッポニカ)

日本は平安中期。永長の後、康和の前。1097年から1099年までの期間を指す。

この時代の天皇堀河天皇

 

 

セルジューク朝(注・02)は

トルコ系の王朝(1038~1194)。カスピ海アラル海北方方面より、

10世紀末にシルダリヤ河口へ移住した族長セルジュークに率いられた一族は、

イスラム化したトルコ人を集めて勢力をなし、

その子イスマーイールはサーマーン朝、カラ・ハン朝、ついでガズナ朝と同盟して

力を伸ばした。

日本大百科全書(ニッポニカ)

 

隠遁者ピエール(注・03)

ベルギーのユイ近郊のヌフムスティエ(Neufmoustier)で死去?)は、

11世紀末にフランス北部のアミアンにいた司祭で、

第1回十字軍における重要人物。

十字軍本隊に先立ち、民衆十字軍を率いてエルサレムを目指し、

その壊滅後は第1回十字軍にも参加した。

クレルモンの北150kmにあるベーリー地方で活動を始めたピエールは、

道徳の立て直しを叫ぶ情熱的な信仰復興運動家としてたちまち熱狂的な人気を集めた。

ノジャンのギベールによれば、ピエールは常に裸足で、

質素な羊毛のチュニックと頭巾のあるケープを着てロバに乗り、

集まった多数の喜捨を貧者に施し、各地でいさかいを鎮めて

聖者の如く崇められたという。

ピエールは年齢不詳で長いあごひげをたくわえ、姿は痩せこけて背は低かったが、

声は大きくその演説は司教や貴族から農民や商人、

盗賊や人殺しに至るまで多くの人の心を動かすことができた。

ノジャンのギベールは、ピエールの訴えに熱狂した人々が殺到して、

彼の衣服やロバのたてがみをはぎ取り、

聖遺物でもあるかのようにしまいこんだことを書いている。(ウィキ)