40日ファスティング経験者の本音!

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ヒルデガルトファスティング 02 ヒルデガルトの生涯 02 『道を知れ』 の執筆  

私の手元には、カトリック神父であったコルベ神父(注・01)の創業した

聖母文庫から「ビンゲンのヒルデガルト」という文庫本、

そして荒地出版社からは、クリスチャンではない神秘家の翻訳した

「聖女ヒルデガルトの生涯」があります。

ではウィキのヒルデガルトの生涯をまず紹介してから簡単に

ヒルデガルトの生涯をみていきましょう。

 

・・・・1098年、神聖ローマ帝国ドイツ王国、ラインラントのアルツァイ近く、

マインツ大司教区・ベルマースハイムで、地方貴族である父ヒルデベルト、

母メヒティルトの10番目の子供として生まれる。

洗礼名はヒルデガルト。出生地については両親の出身地である

ベッケルハイムという記述もあり、ディジボーデンベルク近くの

ベッケルハイム城の在った現在のシュロスベッケルハイムと思われるが、

詳細は不明である。

1106年より同大司教オーデルンハイムのディジボーデンベルクにある

ベネディクト会系男子修道院ザンクト・ディジボードの近くで

隠遁生活を送る修道女ユッタ・フォン・シュポンハイムに育てられる。

ユッタはディジボーデンベルク近くのシュポンハイム城の貴族

(シュポンハイム伯シュテファン1世の娘)で、

兄弟にケルン大司教フーゴー・フォン・シュポンハイム(ドイツ語版)がいる。

姓については、シュパンハイムとシュポンハイの両方の記述がある。

後に、彼女の教育にはザンクト・ディジボード男子修道院

修道士フォルマールが加わった。

ユッタは敷地内に女子修道院を設立して院長となった。

1136年にユッタが死去すると、ヒルデガルトが女子修道院の院長に就任した。

1141年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の

修道女リヒャルディス・フォン・シュターデの援助の下、

『道を知れ』 の執筆を開始し、

自らの幻視体験(後の彼女自身の言葉によれば「生ける光の影」を

初めて公けに表明し、この頃から彼女の幻視体験が

マインツ大司教ハインリヒの知るところとなる。

1147年、クレルヴォーの大修道院院長で、当時宗教界に非常に大きな影響力があった

聖ベルナールに助言を求めて書簡を送る。

同年、教皇エウゲニウス3世によって開かれたトリーアの教会会議において、

ヒルデガルトの幻視体験がマインツ大司教ハインリヒによって俎上に載せられる。

教皇使節が彼女の許に派遣され、執筆途中の『道を知れ』を持ち帰り、

教会会議上でそれが披露され、多くの人に感銘を与えたとされる。

この時同席していた聖ベルナールの取り成しもあって、

教皇より執筆の認可が正式に彼女に与えられ、

これによって彼女の名が広く知られるようになる。

また、この頃から典礼用の宗教曲を作詞作曲し始める。

彼女の作曲した典礼劇『諸徳目の秩序』は、

作者の知られた典礼劇そして道徳劇としては最も古い。

ヒルデガルトはユッタからプサルテリウムの演奏の手解きを受けており、

合唱の伴奏楽器として使用したと思われる。

彼女の名声によって各地から修道女が集まり手狭になったため、

1150年にビンゲン近郊のルペルツベルクに新しい女子修道院を建設して移る。

ビンゲンとライン川の支流ナーエ川を挟んだ対岸の丘陵地は、

ザルツブルクのベネディクト会修道士聖ルペルトの一族の所有地であり、

その聖遺物が納められてルペルツベルクと名付けられた聖地であった。

ヒルデガルトが新しく建設する女子修道院をこの地に定めたのは、

聖ルペルトがドイツ圏で初めて女子修道院を建設した人であった事が

念頭にあったと思われる。

翌年、『道を知れ』が完成した。

 

コルベ神父(注・01)

ポーランドの聖職者。フランシスコ修道会士として、

1912~19年にローマのグレゴリア大学で哲学、神学を学び、

帰国後、22年からクラクフで『聖母の騎士』誌を発刊した。

その後アジアでの伝道を志し、30年来日し、

長崎に養護施設「聖母の騎士園」を設立し、伝道に努めた。

36年カトリック管区会議に出席するため帰国したが、

41年にナチス・ドイツ軍に捕らえられて、

オシフィエンチムにあるアウシュウィッツ強制収容所に入れられた。

同年8月同室者の脱走によって、

見せしめの処刑のために選ばれた10人のうちの1人の身代りとなって、

餓死の刑で死亡した。

1971年にカトリック福者に、82年には聖人に列せられた。