40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

断食指導30年のあゆみ 40 本物の断食とは何か 22 世界標準のファスティングは聖書  

真のファスティング、世界標準のファスティングは聖書しかありません。

創世記は

 

天地創造と原初の人類

イスラエルの先祖たち

・ヨセフ物語

 

と大きく3つに分ける物語で、これらは別の物語でしたが、

全く成立過程の異なった物語を、

連続する物語としても読めるように再編集したものです。

そして創世記を含むモーセ五書が現在の形に編集された時期は、

およそ紀元前550年前後のバビロニア捕囚期とされています。

紀元前586年、南王国の首都エルサレム神殿が破壊し、

主だった者は全員、バビロン捕囚となって異教の地へ強制移住させられますが、

そこでユダヤ民族が崩壊しないように自分たちのルーツを文章化していったのが、

モーセ五書(トーラといい創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)です。

トーラは後にトーラは、プトレマイオス朝エジプトのファラオであった

プトレマイオス2世の命で、ユダヤ教の祭司族とされる

レビ族の書記官たちがギリシャ語に翻訳した律法の題名です。

この翻訳がキリスト教イスラム教誕生につながっていきます。

そして現在、世界の55%の人たちは、トーラが基礎になっています。

中でも創世記の記事を知らないと

世界の半数の人たちとは会話もできないことになります。

ましてやファスティングの中核が創世記にあるということは常識中の常識であり、

知らなければファスティングの本質が分からないだけではなく、

失笑されていまいます。

ではその創世記の天地創造物語から

ファスティングの本質を紐解いていきましょう。

 

その前に

創世記・天地創造の記事はこのように書かれています。

 

1:1 初めに、神は天地を創造された。

 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 

天地創造は、まずこのような書き出しではじまりますが、その天地創造は、

7日間で終了します。この7日間を断食日の7日間に置き換えてみましょう。

私たちは体も心もまさに

 

「1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」

 

の状態ではなかったでしょうか。

私たちの体と心に日常生活の混とんとした滓や多すぎる体と心の重荷のために

「混とんとして暗い」ものではなかったでしょうか。

それゆえに疲れやすく、すでにもう病気になってしまっている場合もあります。

体の不調に押さえ込まれてしまっているかもしれません。

しかし、天地創造の7日間のファスティング

心身ともども内側を浄化しますと新たな創造を取り戻すことができるのです。

私たちはファスティングで今までの飽食を断念することにより、

神に創造の歴史を体感することができるのです。

体に有毒なもの、

有害物質や魂や体の負担になる暗闇を追い払うことができるのです。

そうすれば「光あれ。」と言われたように私たちに光が突入するのです。

それが真のファスティングの本質なのです。

これを体感しないファスティングは偽物だということです。

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 39 本物の断食とは何か 21 なぜ日本の断食施設は、世界レベルのファスティングとかけ離れたのか 

私は30年前に水だけのファスティングを体験しましたが、

開始するとすぐさま自分の口臭と皮膚の臭いも感じ始めたことを覚えています。

しかも舌は舌苔で白くなっていました。

そして異常な空腹に襲われ、その空腹を満たすために、かなり飲み、

多いときで1日8リットルとまさに水中毒の手前です。

ただ1週間の水断食でしたからもちろん水中毒にはなりませんでしたが、

10分おきにトイレに行っていました。

しかし、この水を飲んだことは、私の体の大掃除になりました。

そして宿便を取ることもできたのです。

私はあるファスティング入門書に書いてあった

ファスティングは、内側からの美容術です」という言葉が分かりました。

譬えでいえば馬小屋の排せつ物を出さずして、

きれいに馬小屋を掃除できないことと同じで、

自分自身の排せつ物を出し切らないと、体の真の掃除はできません。

これができないファスティングはあり得ません。

ですからファスティングは本だけ読んでも何も分かりません。

体験の健康法であり、毒素を出し切ることなのです。

藤樹の宿方式の超少食ファスティングでも好転反応で同じようなことが起こります。

ですから体臭を吸収できる下着は必要ですし、

こまめに下着を洗濯することです。

ファスティング期間は、皮膚に塗る油脂、

ボディーブラッシングを持参するのもよいのですが、

藤樹の宿が用意していますアメニティーで十分です。

ファスティング期間中は、女性の分厚い化粧などはあまりしない方がいいでしょう。

毛穴を通って毒素が排出されるのを塞いでしまうからです。

また肺からも老廃物を排出しようとしますので

それを支援するためにも新鮮な空気を吸うようにしていただきたいので、

最適は森林浴、散歩をしていただくようにおすすめしています。

そしてファスティング期間中、ある意味では砂漠の道を歩むように思えても、

必ずその先にオアシスがありますから、

ファスティングの終わった後の素晴らしを語るように私はしていますが、

それを信じて期間を全うしていただくようサポートしています。

ファスティング期間こそ、肉体的だけではなく、

精神的にも余分なものを捨て始めていくことですから、

まさにファスティングは「魂の予防医学」なのです。

日本にある大半のファスティング施設は、

体のデトックやダイエットに重点を置いていますが、そうではありません。

自分の魂と向き合うことが第一なのです。

かくして真のファスティングとは、自分の魂と向き合う、

いや自分の霊性と向き合うことなのです。

コロナが始まった時、京都大を出た優秀な青年がファスティングに来ましたので

少しだけこのような話をしましたが全く聞く耳を持ちませんでした。

それだけ日本では「魂の予防医学」を理解せず、目も見えず、

耳の塞がれていることか分かりました。

宗教にこれだけのアレルギーがるようでは、

まさに日本のファスティング施設の指導者は、

耳の聞こえない盲人の手引きする方に導かれていくようで

世界のファスティングレベルからは相当、かけ離れていることなのです。

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 38 本物の断食とは何か 20 真のファスティングとは「オイル交換である」 

私たちがファスティングすると自分自身の体を維持するシステムが、

 

ファスティングを始めた瞬間から、外部からの栄養摂取をするのではなく、

 

自分自身の体内から、栄養摂取することに切り替わります。

 

私たちの体は、生きるために、

 

維持するために多くのエネルギーを体の中に何十年と溜め込んできたのです。

 

そのエネルギーの貯蔵庫から得ようと切り替わるのです。

 

そして私たちは当たり前のように摂取する、

 

つまり「食べることだけ」の生活から、

 

「排出すること」を中心とする生活にスイッチされます。

 

すると私たちの体では、体の中にある老廃物の回収が始まります。

 

そしてすべての弁が開き、体は代謝によって出た老廃物を排出し始めます。

 

ほとんどの老廃物としての毒素は、体の中で、たんぱく質が分解されますので、

 

毒素は次第に解消されていきます。

 

こうして私たちの体の中の毒素は、大腸、腎臓、皮膚から排出されていきます。

 

摂取された、たんぱく質は、あらゆる組織の毛細血管の壁に付着するのですが、

 

これもファスティングしている期間に分解されていきます。

 

このようにして将来、起こるであろう

 

代謝疾患(代表的な病気は糖尿病、脂質異常症、肥満症、メタボ、骨粗しょう症)、

 

心筋梗塞脳卒中を予防することができる働きをファスティングはしてくれるのです。

こうしてファスティング期間中の体は、不必要で、

 

体の負担となっているものや病気のもとを分解してなくしてしまうのです。

 

これをたとえれば、あなたの大切なマイカーを持っておられるのなら、

 

必ず、定期的なオイル交換をされるでしょう。

 

それを怠るとエンジンの調子がおかしくなり、放置すれば、

 

取り返しのつかない故障ということになります。

 

ですから真のファスティングとは「オイル交換」といえます。

 

ただ自動車のオイル交換のようなものではありますが、

 

プロセスにおいては、何にも苦労がないという安易なものではありません。

 

私たちは高級な自動車であってもオイル交換をしていなかったら確実に故障し、

 

しまいには動かなくなります。

 

ゆえに真のファスティングとは、

 

定期的にオイル交換をこまめにしなければならないように、

 

定期的にすることなのです。

 

自動車のオイル交換では、何キロ走ったらオイル交換をするのか、

 

自己管理しなければなりません。

 

それを誰がするのかです。

 

自動車のオイル交換の場合、ガソリンスタンドか修理工場で管理してくれます。

 

そして自動車の中に交換日のステッカーを貼ってくれます。

 

それを自分で見て、いきつけの修理工場でオイル交換してもらわないといけません。

 

このように人間の体もこのオイル交換を定期的にしなければなりません。

 

それが真のファスティングなのです。

 

しかし、オイル交換の方法が間違っていたら大変なことになります。

 

これまで日本のファスティング施設の多くが、

 

水か酵素ジュースでしたが、これは相当きついファスティングでしたから、

 

反動がきつく、体がもたないのです。

 

まさにガソリン車にハイオクを入れるか、

 

誤って軽油を入れるような愚かなファスティングだったのです。

 

特に酵素ジュースファスティングはガソリン車に、

 

誤って灯油を注ぐに等しい愚かなファスティングなのです。

 

これではせっかく正しいオイル交換にはなりません。

 

酵素ジュースファスティングは、酵素だけでも高く、

 

宿泊費用も1泊2万~3万円は支払わなければなりません。

 

正しいオイル交換(ファスティング)は、

 

自動車(あなたの体)を長く維持するものですから慎重にして、

 

賢く選択しなければなりません。

 

そのためには正しくファスティングを指導し、導き、

 

しっかりと正しく管理してくれるファスティング指導者と

 

ファスティング施設を選択しなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 37 本物の断食とは何か 19 あなたの荷車を天の星につなげる断食とは 

日本ではカトリック修道院が、

ファスティングの施設という認識は全くありません。

たたの観光施設のようにしか理解していません。

まず辞典(ウィキ)では、修道院はどのように解説しているをみましょう。

 

・・・修道院(英語: Abbey)は、キリスト教において

修道士がイエス・キリストの精神に倣って

祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。

男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても

修道士・修道女は独身を守る。

いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。

修道院を有する教派としては、東方諸教会正教会カトリック教会、聖公会

ルーテル教会がある。

ルーテル教会を除き、プロテスタントには

極めて僅かな例外を除いて修道院は無い。・・・

 

この「プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い」ということは、

プロテスタントは完璧にファスティングを否定しているということなのです。

ただし韓国のプロテスタントは例外です。

むしろファスティングに積極的で

今や世界のホーリースピリチュアル・ファスティング最大の拠点

となっているからです。

しかし、本場は修道院なのです。

さて、そのカトリック教皇ヨハネ・パウロ二世はこのように語っています。

 

「断食は生命がこの世で勝利を手にするためのかけがえのないトレーニングである」

 

と語っています。

また、このような説明が修道院ではなされています。

 

修道院では鍵は内側についているでしょう。それが牢獄との違いです」。

 

このことを解説しますと、鍵が内側についているか、

外側についているかの違いだということは、

自分の意志でファスティングするということ。

つまり物質的な困窮とか、国家間の戦争とかで食料が欠乏して、

貧困、飢餓状態でファスティング状態に追い込まれるということではなく、

こうしたこととは一切、関係もなく、

ファスティングする場合とでは、根本的に異なるということなのです。

つまり後者の場合のファスティングは、

自然な形で自己をセルフコントロールするのだということです。

そして自らの自由意志で決断することです。

しかし、現代では過食症などが典型的な例ですが、食に固着してしまい、

異常な食欲に支配されています。

しかし、私たちも食欲は当然あるのですが、

それを内側から鍵をかけて、いつでもオープンできるにも関わらず、

あえてファスティングするということと「私は何も食べない」とかは、

「食べれない」とか「何も食べるものがない」という次元とは

全く異なることなのです。

ファスティングをこうして自分で決断することは、

自分を縛っているものへの決別なのです。

これを決断して実行することこそ、

図り切れない祝福があなた自身に降り注がれます。

このことをファスティングで生涯を送ったとわれる大芸術家であります、

レオナルドダヴィンチは、

 

「自分の荷車を天の星につなげる人間なのだ」

 

と語りました。今、ファスティングを考えている方に申し上げます。

ファスティングすることにより、

「あなたの荷車を天の星につなげようではないか」と。

そうすればファスティングほど素晴らし体験はなく、

そして将来に大きな希望と力が与えられるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 36 本物の断食とは何か 18 あなたはどのような姿勢で断食しますか

いったいどれでは真実のファスティングとは何か、その中核は何かです。

それをまず自分自身に問いかけてみましょう。

 

1・自分がなぜファスティングをするのか明確にしていますか。

 

2・ダイエットとかデトックスを第一とはしていませんか。

これらは手段で目的ではありません。

 

3・ファスティングの主眼は全身の新陳代謝と活性化です。

 

4・病気の症状を改善させることが可能です。

 

5・ファスティングを通して、物事を以前より、

明確に見ることができるようになります。

 

6・回心して新たな方向に向くことができる。

 

7・ファスティングを通して、あなたの人生に新たな希望を持つようになれます。

 

8・ファスティングを通して、体験は個々に異なりますが、

重要な人生の転機となり、ヒントが与えられます。

 

そして私たちはファスティングの本質を知ったら、

むやみやたら現代医学に振り回されるのではなく、

まず何を差し置いてもファスティングをするはずです。

中世で最高の名医といわれたアヴィケンナ(980-1037)は、

ファスティング療法を用いていました。

そこからこの時代に生まれた言葉が、「内科医」という言葉です。

これはファスティングの時に医師の役割を果たすものということで

名づけられたそうです。

つまりファスティングはメスの要らない手術と言われていたのです。

ファスティングをすることにより、何の苦もなく、

有害物質を取り除くことができるからです。

そして必要なものは残るからです。

どんな優秀な外科医でも自分のメスで

ここまでこまやかに痛みを感じさせずに

有害な物質を取り除くことは不可能なことです。

まさにファスティングは神のおこなう、

「メスのいらない最高の医療」なのです。

そしてファスティングはその効用につて修道院では、

11の項目をあげています。

 

1・人をしっかりさせる

2・人を以前より自由にすることができる

3・内なる心を清明にする

4・新たな人生観を得るのに役立つ

5・体重を過重な分だけ減らせる

6・人を若返らせる

7・最高の健康対策である

8・力とエネルギーを与えられる

9・消化器官、運動器官、心臓、循環器、腎臓の負担を軽くする

10・むくみをとり、塩分を抜き、体から毒素を抜くことができる

11・多くの病気に効果がある

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 35 本物の断食とは何か 17 究極の断食にいくのは「バイブル・ファスティング」しかない 

「バイブル・ファスティング」と比べれば、

東洋断食の代表であるヨガなどでは到底、断食の極みにいくことはできません。

少なくともそこにいくには修道院ファスティング

いやプロテスタントも含め、

キリスト教ファスティングはその道を知っているのです。

つまりファスティングは、苦しむことを目的とした修業行為とは違います。

はるかな霊的な高みかにいこうとするものであり、

ファスティングという苦行を重ねて、

人間の努力でそこに行こうとすることではありません。

極めて霊的な営みなのです。

人間の限界を突破していくことなのです。

ファスティングの極みを知った使徒パウロは、

たった一人でローマ帝国と戦い300年後に霊的に征服したのです。

それはまさにファスティングで次のことを知っていただからです。

パウロはそのことを手紙で次のような書きました。

 

ローマ人への手紙

 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きることにもなると信じます。

 

第1コリント人への手紙

7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、

物を買う人は持たない人のように、

 7:31 世の事にかかわっている人は、

かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

 

このパウロの言葉の解釈です。

 

「この世の楽しみや物質的な財産を過小評価はしていないが、

ただそれを常にただちに手放す覚悟をしているという意味なのである。

つまりファスティングは所有していなくてもいいということを

身につけるためにあるのです。

そして欲望をコントロールするためにファスティングはあるのだということです。

ファスティングはただ単に美容や健康のためでもなく、

内面の浄化なのということです。

 

・自分の人生を根本的に見直し、軌道修正したい人、

・何かを談するため

・いつも習慣を断つためにコンバージョンを切に願っている方

 

このような人々のためにあるものです。

 

ファスティングする人は創世記の「アダムの時代の楽園回復」なのです。

それはそれは楽園=天国への切符となるのです。

飽食三昧の生涯、権力や財産、

多くの業績を求めての永遠のしあわせはみつけられません。

私たちは後世に何を残すかが問われるのです。

カトリックの基礎を築いた聖アウグスティヌスは、

このような忠告を残しています。

 

「何でも探したいものを探しなさい。

だが、あなたが探しているところではないところを探してみなさい。

 

いくら物質的な欲望を満たしても、あなたの魂は高みに向かうこと、

憧れることがやまないといいます。

私は聖アウグスティヌスの言葉がよく分かります。

 

保険代理店で大成功すればするほど魂は植え乾いていたし、

魂はもう枯渇状態であったからです。

私たちはあのアダムの住んでいたエデンの園の回復が必要であり、

天国への切符はまさにファスティングという欲望を

コントロールすることから始まるのです。

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 34 本物の断食とは何か 16 修道院での飽食、美食が蔓延した結果 

今年はイースターが4月9日でした。

この日までの期間を四旬節という受難週で、この間は、断食期間ですが、

次第にこの断食期間は世俗化、乱れた食事になって、

カトリック教会も堕落していきます。

その大きな要因は、あの有名な聖トマス・アクィナスだったのですから驚きです。

彼の登場までは、修道士は四旬節という

受難週断食期間中に肉食の罪を犯すと死罪だったのですが、

トマス・アクィナスはあまりにもひどい俗っぽい肥満となってしまい、

相当な肉を食べていたようなのです。

そしてある修道院では、修道院一人当たりのカロリーが

7000キロカロリーと超肥満体だったという記録があります。

修道士たちの暴飲暴食がこのような結果を招いたのですが、

当時のドミニコ修道会のハンス・コンラートは、

「理想と現実とは一致しない」と嘆きつつ、その廃頽ぶりを報告しています。

しかし、そのような廃頽とは真逆の

最初に断食を核とした聖アントニウスのように

清貧と粗食と断食を繰り返している修道士も数多くいたのも事実です。

ロームアルト(956-1027)は、

毎日、手のひら一杯のエンドウマメで生活したといいます。

また、聖ケレンスティヌス(1209-1296)は、

年6回の40日断食をしていたともいいます。

世界の歴史で最初にエジプトの砂漠に修道院を開設した

聖アントヌイス(251-356)は、

基本的に日が沈むまで何も飲み食いしない生涯を送りました。

この聖アントヌイスの修道院内規が、

キリスト教の断食祈祷の基礎となっています。

こうした3人の素晴らしい中世の修道士たちの断食姿勢がいたのですが、

残念ながら真逆が食べ物に執着した修道士たちも多くいたのです。

その理由は飢餓への恐怖だと言われています。

天候による食物不足による飢餓、

また、戦争による略奪が起こす飢餓でただちに飢えに脅かされるために、

食べられる時に腹一杯食べておくことに

脅迫的なものに憑りつかれていたのです。

これは日本でも私のような70歳台以上の方は、

太平洋戦争と戦後の食糧不足で、飢餓への恐怖があり、食べまくってきたのです。

中世時代は戦争(十字軍など)を担う騎士たちは大いに飲み食いしたのですが、

問題は修道士でした。

食べ過ぎが修道士に蔓延すると間違いなく、修道院は退廃し、

その修道院の地域住民は、退廃していきました。

自分自身の欲望をコントロールできない惨憺たる姿となっていきます。

食べ過ぎで帝国国家が崩壊したローマ帝国のように

目も当てられない光景なのです。

魔女裁判などもそのような退廃の中から出てきた悪しき慣行の一つです。

すべては食の退廃なのです。

ベネディクトゥスは、「神をその坊主頭であざむいている」と批判しましたが、

日本の仏教でも今日、坊主が袈裟を着て肉酒をたらふく食べているのと同じです。

まさに修道士たちが外見で神を欺いているという姿で

中世の風刺画にかなりこの滑稽な姿が残されています。

フランスの作家モーリャックは、

「大修道会の俗物主義」として痛烈な批判をしました。

彼は「修道士たちの精神状態は、英国の競馬倶楽部の会員と同じだ」指摘しています。

修道院での飽食、美食が蔓延して、

堕落すればカトリック教会を支えているものが崩れ、

教会全体が崩壊し、ついに中世の時代の暗黒の教会史となっていきます。

それゆえにルターの宗教改革は必然だったのです。

ルターの宗教改革で退廃していたカトリック教会も復興していくのです。