40日ファスティング経験者の本音!

ファスティング(断食)の素晴らしさやファスティングの正しい方法、効果などを紹介しています。

断食指導30年のあゆみ 33 本物の断食とは何か 15 修道院の断食から生まれたチョコレートファスティング

ビールがそうであったように修道院では

厳格に断食を厳守する修道士ばかりではなく、

知恵を出して抜け道を考案したのです。

たとえ修道士であろうとも食の誘惑に勝つ者は少数であったようで、

カトリックはその誘惑から退廃していくことになります。

断食の規定では肉と卵、乳製品も禁止です。

しかし、甘いものは禁止されていませんでしたので、

ミツバチを修道士たちは飼い、中世の修道会では養蜂技術が発展していきました。

そして蜂蜜を使用したお菓子がつくられあのアッシジのフランチエスコでさえ、

臨終の床でアーモンドと蜂蜜をからませたお菓子を食べたいといったといいます。

またヨーロッパでは中世以降の修道院で、蜂蜜でつくった

ロウソク(ミツロウ)を作られてきました。

また南アメリカに派遣されたスペインの修道女が原住民は

まずいとう飲み物に注目し、その飲み物からチョコレートを創造したのです。

この時にローマカトリック教皇はチョコレートを飲むことは

断食の掟を犯していないと通達を出しました。

それがチョコレートブームに火をつけたのです。

そしてヨーロッパの修道院では、

40日断食期間中にチョコレートを飲む習慣が根付いていきました。

日本チョコレート協会のサイトに次のような説明がありました。

 

・・アステカ王国を滅ぼした人物として有名ですが、

スペイン国王カルロス一世に宛てた書簡で、

「このカカオと申すものは、粉にして売られ、大変珍重されているものであります。

当地では広く貨幣の役割を果たし、市場でも他の場所でも、

必要な物をすべてこれで買うことができます」と

 

カカオの有用性を報告しています。

スペインにいつチョコレートが伝わったかルートや正確な年月はわかりません。

新スペインとスペイン本国の間は、

貴族・軍人・聖職者・官僚・商人などの様々な人の往来がありました。

これらの多様なルートを通じて、新スペインで庶民にまで広がっていた

チョコレート飲料がスペイン本国に伝わったと考えられます。

また、修道院組織や聖職者組織が大きな役割を果たしました。

1534年にピエド修道院でヨーロッパ最初のカカオが調理されたといいます。

1544年にドミニコ会修道士たちがマヤ族の貴族を伴ってスペインを訪れ、

フェリペ皇太子に謁見した際に、泡立てたチョコレートを用意していました。

スペインに輸入されるカカオは少量であり、しかも大変高価だったため、

チョコレートを享受できたのは王侯貴族や上層階級に限られました。

アステカの特権階級の嗜好品であったカカオ飲料が庶民に広がったのは、

アステカ王国が滅びスペインの植民地(新スペイン)になってからです。

アステカ王国滅亡後も新スペイン各地からカカオの貢納は続き、

スペイン人がそれを受け取りました。

新スペイン社会の中にカカオの循環径路が作られ、

カカオ飲料を飲む習慣が広まっていくと、

カカオ飲料は大衆的な飲み物となりました。

アステカ王国で上層階級が親しんでいたカカオの品種は

クリオロ種でしたが、スペイン征服後は生産量が多くより安価な

フォラステロ種が広まり、大衆化に貢献したようです。

新大陸にやってきたスペイン人と現地の文化との交わりが発生し、

新スペインでは多くのスペイン人家庭の食生活に

チョコレートが取り入れられたといいます。  

新スペインに砂糖が入ってきたのは1522~1524年頃とされ、

この頃チョコレートが甘い飲料になったようです。

これまでアステカ族が甘味を加えず飲んでいたチョコレートは、

白人たちの大変革により熱く砂糖で甘味を加えられたものになりました。

(チョコレートが熱く甘い飲物になったのは

スペイン本国へ伝播してからという説もあります。)

また、アステカの戦士たちの利用法を応用し、

カカオ液を固形にして貯蔵や運搬を便利にしました。

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 32 本物の断食とは何か 14 修道院の断食から生まれたビールファスティング

中世カトリックも厳格にファスティングしていたのではありません。

昨日、書きましたようにカトリックの教会法で定められた

小斎を拡大解釈していきます。

そして修道院ではファスティング期間中の抜け道をいろいろ模索し、

考える修道会が生まれてきたのです。

ある修道院の司教は狩りが大好きで素晴らしい鹿を仕留めたそうです。

するとその鹿を池に放り投げて、やつは泳いでいるので

「鯉なのだ」と言って、ファスティング期間中には魚はよい

という規定を逆利用したという笑い話のようなエピソードがあるようです。

更に手の込んだ教会規定の逆利用が生まれてきました。

それは「ファスティング期間中は飲み物はいくら飲んでもよい」ことを活用して、

特別な飲み物を考えたのです。

それがドイツを中心にした「修道院ビール」です。

そして修道会の名をついたビールが続々と誕生していきます。

フランシスカーナ、パウラーナ、アウグスティーナなど

いくつかの名が今でも残っています。

それはドイツを中心にした多くの修道院が、ワインの醸造技術を用いて、

食事がとれない年2回の40日断食期間に飲むようにしたのです。

それがビールの技術が高度に発達していくことになります。

そういえばビールはホップを除けば、パンと同じ原料です。

水と穀物イースト菌です。

これを醸造すればビールとなり、完全に食欲を満たすことになります。

日本のビール酒造組合のサイトには次のようなビールの歴史が書かれています。

「中世になると、ヨーロッパでは、

上等なビールが修道院でつくられるようになりました。

当時の知識人であった修道士や僧侶たちは醸造知識にも優れ、

香味剤である「グルート」を使ってビールをつくりました。

この頃のビールは、栄養補給や医療にも利用されていたようです。

ところが、11世紀後半になると「グルート」の中でも「ホップ」を使用した場合に、

ビールの品質が飛躍的に向上することがわかってきて、

このビールが次第に広まっていきます。

13世紀には、修道院のグルートビール

都市のホップビールの間で激しい競争を巻き起こすことになりました。

15世紀以降、都市の発展とともにギルド制が定着するに至って、

ビールの醸造は次第に市民の手に移るようになっていきます。

ビールが市民に広く愛飲されるにしたがって、

醸造技術に次々と改良が加えられ、ビールの品質はより向上していきました。」

 

パウラの聖フランシスコ修道会は非常に厳しい戒律で有名な修道会ですが、

毎年四旬節の断食開始の日に聖フランシスコのお祝いに何かをしようとなり、

知恵をしぼったあげく、あの厳格な修道士たちが

実に濃度の高い高技術のビールを編み出したというのです。

ミュンヘンの宮廷醸造所よりも強いビールだったようで、

その名は「ドッペルボック」といわれます。

宮廷醸造所の名が「アインボックビール」といい、

アルコール度も2倍の強いものであったことから命名されたようです。

そして何とこの修道会は、このビールに聖フランシスコの名をつけ

聖フランシスコのオイル(油)」

または「修道会創立者聖フランシスコの油」という商標名をつけたのです。

当時のワーマール公国の高官であった文学者ゲーテは、

「最初がぞっとしたが、1週間も飲み続けていると手放させなくなる」

と書いています。

私は私見ですが、

ドイツの修道会がこのようなビール開発にしのぎを削ったがゆえに

修道会の乱れが始まったと思います。

ルターが宗教改革を起こした原因になっていったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 31 本物の断食とは何か 13 聖書の伝えるファスティングとは、すべて「神への奉仕」のため 

日本では断食の本質を欠落したまま今日まできて、

いわゆるファスティングブームに浮かれています。

ほんとうのファスティングと何か。

それは「生命の基本」であることを忘れた断食はあり得ないのです。

それは人間のことだけではありません。

空を飛ぶ渡り鳥を見たら分かります。

彼らは、何も食べずに遠い距離を飛びます。

サケも産卵地まで何も食べずに川を上ります。

南極のペンギンは卵がかえるまでエサを食べないし、

昆虫もさなぎの間は全期間がファスティングなのです。

しかし、聖書の伝えるファスティングとは、

すべて「神への奉仕」のためなのです。

聖書では何度もファスティングの光景が描かれていますので、

キリスト教2000年の歴史はそれを体現しています。

ファスティングに立脚したからこそ、世界の35%もがクリスチャンなのです。

まず下記のようなことが新約聖書に書かれています。

 

使徒言行録

13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。

「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。

わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」

 13:3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

 

この光景はローマ帝国の地中海沿岸の島々で

最大規模のキプロス島使徒パウロたちを送り出す前にファスティングして、

手を置いて祈ったのです。

この手を置くことはキリスト教国、アメリカ大統領就任式で見られます。

大統領を任命するため複数の牧師が、大統領の上に手を置き祈り、

大統領はそのあと聖書の上に手を置いて宣誓をします。

これは神に向けての宣誓なのです。

初代の教会からファスティング

 

1・神を礼拝すること

2・自らの信仰を深めること

 

の2点です。

初代のキリスト教から今日までキリスト教の神髄は、ファスティングにあります。

ゆえに「ファスティングなきキリスト教会は教会ではない」のです。

つまり教会にファスティングがなければ真の礼拝はなく、

神と交わる信仰の深さも広さもまったく分からないということなのです。

キリスト教の母体、基礎でありますユダヤ教ではどうだったのでしょうか。

まずユダヤ教団では、週2回の断食をしていました。

水曜日と金曜日です。

またそれを継承して初代キリスト教会でも週2回、

エスの死をしのび同じ水曜日と金曜日にァスティングをしていました。

そして復活祭の前には40日間のァスティングが制定されたのです。

また4世紀になると教会の基礎を据えたと言われる教父アタナシウスは、

40日断食の期間を制定しました。

これに呼応して、キリスト誕生のクリスマス前の4週間、

つまりアドベントも4世紀になると

教会の基礎を据えたと言われる教父アタナシウスは、

40日断食の期間を制定したのです。

またこれに呼応して、キリスト誕生のクリスマス前の4週間、

つまりアドベントもァスティング期間としました。

ファスティングをすることは、

神の代理者としての使命のために働くための準備だとされたからなのです。

とくに洗礼の前のファスティングや司祭任命式の準備のための

ファスティングは当然だったのです。

そしてヨーロッパ中世の11世紀になりますと

ファスティングの厳しい規定が戒律という形で公認になります。

神学者ブーハルトで、肉食や乳製品の飲食を制限する

「小斎(しょうさい)」という規定を作りましたのが、

残念ながら修道院では抜け道を探す修道士たちもいました。

小斎では肉はご法度なので、水にふれているものは魚だとして、

断食期間中に食べても良いという解釈をして、魚だけではなく、

アオサギやビーバーも良しとして食べていたなど、

小斎の規定を拡大解釈していたのも人間の食欲の凄さをものがたるものです。

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 30 本物の断食とは何か 12 私の50年間の損失をそのまま終わらせないために

日本のキリスト教会は2020年からのコロナ禍でも、

またウクライナ戦争においても断食祈祷して祈ろうと呼びかけていません。

断食祈祷が日本に復興しない限り、

日本からキリスト教のもつ地の塩の役割が喪失してしまいます。

ヨーロッパの激動時代に修道院が世俗化の波を押しのけ、

歯止めをしてきたのは修道院の断食であったことはすでに書いた通りで、

このゆえにキリスト教の本質を堅持して、EU統合も実現していますし、

欧州に与えた恩恵は計り知れないのです。

16世紀に活躍したドイツの画家、マティアス・グリューネヴァルトは、

 

有名なイーゼンハイム修道院の祭壇画に

アントニウス(251年頃 - 356年・キリスト教の聖人。修道士生活の創始者とされる)

が受けた悪魔の誘惑シーンを描いています。

その絵を見ますとアントニウスは手足を伸ばして床に横たわり、

ぞっとする悪魔や毛虫に苦しみ、

その苦しみもがくアントニウスを神は上から様子を眺めておられる。

その時、アントニウスは神に「なぜ私を助けてくれないのですか」と尋ねると、

神はこのように答えられたのです。

アントニウスよ、わたしはずっとここにいて、お前の戦いをみようと思ったのだ。

お前が負けずにこの戦いをしのげば、

お前を助け、あらゆる場所でお前の名を高めよう」。

 

そうなのです。悪魔との戦いはイエスがそうであったように

そこで破滅、敗退しなかったものは、魂のあらゆる神秘に通じることができるのです。

神を求めることはいつの時代も同じです。

そして聖アントニウスこそ断食祈祷を切り開いた

ファスティングのパイオニアなのです。

 

そのアントニスの言葉

 

地上の実はたった1時間で熟するようなものではなく、

時間と飴と世話が必要である。同じように、

人生の実のりもはじめは禁欲と日々の修練によって大きくなり、

時がたてば粘り強さと自己抑制、忍耐によって大きくなってゆくのだ

 

アントニウスのように神を真剣に求める人たちの究極の体験は、

ほかならない神との出会いでした。

しかし、それは自分個人の願望であればそれ自体が邪魔をしてしまいます。

それゆえに神との出会いを求める人たちは、

断食をして自分自身の欲望を完全に絶つのです。

それが修道生活の基本ですし、私たちも同じなのです。

しかし、断食はある意味では、

諸刃の剣で間違えばとんでもないカリスマ的指導者となって、

マインドコントロールするようになります。

 

私はそうなった指導者で23年間も操られ、縛られてきました。

もし1993年にこのようなミュラーさんの本に出合っていたら

後の23年間の遠回りはまったく必要なかったのです。

ましてや高校時代、聖書に出会い、聖書の研究に時間を使うことになった時、

断食祈祷を知らなかったのはかなり大きな損失でした。

私はその時に無教会指導者から、

一度も断食祈祷のすばらしさを聞いたことがなかったのです。

なんという損失、そして断食を知ってから断食を自己目的で

利用する指導者にまたもや23年間、振り回され、

合わせて約50年間もの遠回りとなってしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 29 本物の断食とは何か 11 日本教は断食を嫌う宗教   

こうして明治時代の武士から、キリスト教会指導者たちになった代表的人物は、

教会形成では植村正久、日本的無教会主義創設者の内村鑑三の2人です。

その前年に第三回全国基督教信徒大親睦会が東京で開催され、

日本の指導者たちの大半が集まりました。

ここに集まった若者たちは、キリスト教をいかに日本人に宣教し、

聖書をどのように読ませるかでした。

1884年10月15日『真理一斑』刊行して文書伝道を開始します。

また16年後の1900年に『聖書之研究』が発行されます。

特に内村鑑三は若きアーマスト大学時代から

『聖書之研究』という名前の雑誌を公刊したいと考えていたようで

日本人にとにかく聖書を読むように導く雑誌を実行に移し、

初号は3000部完売し、再販をしています。

以後、5000部を切ったことはなく、1930年3月28日に死亡した後、遺言によって

357号にて終刊されました。

内村の『聖書之研究』など著作がCDとしてデータがあり、検索しますと

「断食」は一切出てきません。

以後、内村の弟子たちから今日に至るまで「断食」は

完璧なタブーとなっています。

中でも二代目の後継者、塚本虎二は「聖書知識」という雑誌で

教会なかでもカトリックを徹底的に攻撃しました。

したがって無教会には「断食」は死語となっていきます。

そして断食がキリスト教の根幹であり、基礎だとは無教会派は誰一人信じていません。

第一に誰も断食にことをまったくキリスト教とは別物と考えているのですから、

ある意味では無教会こそ世界の断食から100周遅れといえそうです。

私は山本七平さんの指摘したように日本教の権化は無教会だと思いますが、

それは聖書の奥深い、実に素晴らしい断食を退けてしまい、惜しいことをしています。

カトリックではないプロテスタント側から、

修道院の断食について多くの著作が出ていますので、

その代表的な二人の言葉を紹介します。

スイスの作家であるヴァルター・ニクは次のように語っています。

 

カトリック教会は修道院の中に枯れることのない井戸水の貯水槽という

宝をもっている。

この井戸水からキリスト教という土地を潤す

すべての水がこんこんと流れだしている。

この水なしには、その大部分が干しあがってしまうだろう。

歴史上、教会が衰退しつつあるときにそれを救ったのは、

つねに修道院だったのである」

 

ニコライ・ゴーゴリー(ロシア帝国の小説家、劇作家)は、

修道士たちのもとで断食を学び、「修道士ほど高貴な職業はない」と語りました。

キリスト教会を根底から支えているのは断食であることは多くの証言があります。

そして修道院に蓄積された断食と霊性

断食と医療、断食と科学、断食と薬草など膨大な知的遺産が蓄積されています。

こうした遺産を塚本虎二は、攻撃していましたので

先に述べましたようにものすごいアレルギー反応があります。

私は24年間も所属していた愛農聖書研究会を1993年に追放されましたが、

それは断食をしたからなのです。

このような100周遅れの前近代的な断食へのアレルギー反応は

まさに日本教にほかならないのです。

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 28 本物の断食とは何か 10 なぜ日本の断食をベースにしたキリスト教宣教を阻んだ3つのバンド  

日本の断食が、世界から100周遅れとなっているのは、

日本国民が聖書を読んでいないからだと確信しています。

なぜ日本国民が聖書を読まなくなったかです。

なぜそのようなことになったのか考えてみました。

それは江戸265年間のキリスト教禁教のため、

鎖国の影響が今もなお力強く支配しているからです。

明治時代にキリスト教禁令は欧米からの猛烈な抗議で撤去されたのは明治9年です。

そして宣教師が欧欧米から来日し教会形成がなされて、

プロテスト教会会は宣教師バラの働きにより横浜海岸教会が建てられたましたが、

当時横浜には新しい時代を求めて士族の息子たちが学びに来ており、

その中からバラ宣教師の英語塾に通い、後に教会に足を運ぶ者たちが出てきました。

押方方義、井深梶之助、本多庸一、植村正久らです。

そして岩倉使節団が横浜を出航して10日後、1872年正月2日から新年祈祷会がもたれ、

30~40人の若者たちが熱心に祈ったところ聖霊が臨み、

強力なリバイバル(信仰復興)が起りました。

この祈祷会は当初1週間の予定でしたが数十日も続き、多くの者が涙で改心。

キリストによる救霊を確信し、横浜バンドを結成しました。

バンドとは信徒の群れのことです。

日本の初期プロテスタントの精神的源流は、この横浜バンドと、

熊本、札幌の3バンドによって形作られたといわれています。

熊本洋学校に校長として赴任した

L.L.ジェーンズの薫陶を受けた学生たちによって結成されました。

熊本市郊外にある花岡山に登り、そこでキリスト教を奉じ、

その教えを日本に広く宣布し、ひいてはこの国を

キリスト教国にしようという趣旨の「奉教趣意書」を朗読し、

35名が署名しました。

主なメンバーは小崎弘道、海老名弾正、浮田和民、宮川経輝、徳富蘇峰らです。

しかしこの群れは、熊本に教会を形成したのではなく、

洋学校が閉鎖されたときにジェーンズのアドバイスもあって、

1875年に開校したばかりの同志社に移っていき、

そこで活動するようになりました。

彼らの多くが卒業後、プロテスタント教会の伝道師として用いられたり、

同志社の教授となったりしました。

熊本バンドの人々は他と比べ、国家主義的、自由主義的傾向を持っていました。

札幌バンドは、札幌農学校の初代教頭(実質的には校長)クラークの感化によって

入信した学生たちによって作られました。

クラークの在任はわずか8ヶ月で終わりましたが、

学生たちに知識と人格の教育を施し慕われました。

札幌を去るにあたり「イエスを信ずる者の契約」を作成し、

学生たちに署名を求めたところ、一期生全員が署名しました。

クラークとの別れを惜しむ教え子たちに

「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言葉を残したことはあまりにも有名です。

その一期生の中に大島正健らがおり、

続く二期生には内村鑑三新渡戸稲造、宮部金吾らがいました。

札幌バンドは学校で始まったことから、集会のあり方として最初から、

個人主義的、無教派主義的でした。

後に無教会派の指導者となった

内村鑑三の原点になったといっても過言ではありません。

これらの群れからは教師や学者が多く輩出され、日本のキリスト教界のみならず、

思想界に少なからぬ影響を与えました。

1872年に高札が撤去され、キリスト教が黙許されると、

来日する宣教団は急増し、伝道する一方で神学校を建て信徒を養成したので、

日本人教役者が誕生するようになりました。

日本政府も欧化主義を採ったので、キリスト教に対する風向きは一変しました。

そこで各地に教会が建てられるようになったのです。

しかし1880年代後半からは、欧化主義への反動が起り、

天皇を中心とする国家主義的傾向が強くなりました。

明治政府は欧米諸国による植民地化を免れるため、脱亜入欧を目指し、

富国強兵策を採りました。

そして1889年、天皇を神格化した大日本帝国憲法が発布されました。

この憲法の発布に続き、翌年天皇の名で教育勅語が出されたのですが、

それに対して最敬礼をしなかったとして、

内村鑑三国賊と呼ばれ攻撃されました。これを不敬事件と言います。

このように日本が国粋主義に傾いていく中で、

クリスチャンは国家と信仰について考えていかなければならない時代となりました。

 

 

 

 

 

 

 

断食指導30年のあゆみ 27 本物の断食とは何か 09 世界的宗教は断食とは切っても切れない関係

ファスティングは歴史を大変革していきます。

ヨーロッパを根底からひっくり返した

宗教改革者、マルチン・ルターはファスティングを何度も繰り返していましたので、

死をも恐れず、戦い抜きました。

また、ヒンズー教徒のマハトマ・ガンジー

(1869年10月2日 - 1948年1月30日・インドのグジャラート出身の弁護士、

宗教家、政治指導者)は、

ファスティングをルターのように何度も行い、たった一人でインドを

イギリスの支配から解放させた人です。

ガンジーは政治的な革命をともなうファスティングは、

一切の私利私欲があってはならないと知り抜いていました。

このことをガンジー

「たとえば私が父親に対して、父親の酒乱など悪習を止めさせるために

断食をすることはできますが、

父親の遺産をもらうために断食することはできないのです」と説明しています。

このガンジーファスティング姿勢は

まさに修道院で伝えられてきたキリスト教ファスティングと酷似しています。

1930年代のことですが、このようなエピソードが伝えられています。

ニューデリーで暴動が起きても、

英国政府高官はニヤリと笑みを浮かべるだけだったが、

マハトマ・ガンジーが断食をすると英国の官庁全部が震え上がった」といいます。

真のファスティングは国家も世界も動かすのです。

すると日本のファスティング施設は何をしているのでしょうか。

ファスティングはただ単に個人の趣味と実利なのでしょうか。

ダイエットやデトックだけのファスティングではあまりのも矮小化しすぎています。

またガンジーファスティングだけではなく、徹底した菜食主義でした。

ガンジーの菜食主義思想はインドのヒンドゥー教ジャイナ教の伝統と

彼の故郷グジャラートに深く根づいており、

ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者でした。

彼は様々な飲食物を試した後、

「菜食は体に必要な最低限度を満たす」という結論に達し、

日常の食事は穀物、豆類、果実、ヤギ乳、蜂蜜に限定していました。

ガンディーの菜食主義は「殺されるのを嫌がっているものは食べない」

という信念に基づいており、「自ら実をつけて熟して実を落とすものをとるべき」と

いう徹底していました。

またユダヤ教から出た世界宗教イスラム教では、

ファスティングはその信仰を根底から支えるものとなっています。

5つの掟(または五行)に含まれています。

 

1・メッカ巡礼(ハッジ・経済的・肉体的に可能であれば、

ヒジュラ暦第十二月であるズー=ル=ヒッジャ月(巡礼月)の8日から10日の時期を中心に、メッカのカアバ神殿に巡礼する)

 

2・日々の祈りの時間(サラー・一日五回、キブラに向かって神に祈る)

 

3・アラーへの信仰告白(シャハダー・アッラーの他に神は無い。

ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。)

 

4・喜捨(ザカート・収入の一部を困窮者に施すこと

 

5・断食(サウム・ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。)

 

そして年に1回のラマダーン断食月(聖別月)として、

全世界のイスラム教徒は、日が沈むまで飲食、喫煙、性行為は禁止されます。

そして断食期間の最後は盛大な祭りで終わりますし、

ラマダーン以外にもあらゆる記念日に断食をします。

シーア派では十行となっています。

(礼拝、喜捨(施し)、断食、巡礼、五分の一税、ジハード(努力すること)、

善行、悪行の阻止、預言者とその家族への愛、(預言者とその家族の敵との絶縁)

 

以上、見てきましたように世界的宗教は断食とは切っても切れない関係なのです。