ホーリースピリチュアル・ファスティング 58 ファスティングの極みにいく 07 あらゆるものを断念、手放すファスティング
15世紀の修道士、トマス・ア・ケンピスという方がいます。
代表作、『キリストに倣いて』は聖書に次いで最も読まれた本で、
世界の各国語に訳され、日本では早くも1596年に
『こんてむつす・むんぢ』というタイトルで発行されました。
この中に
「この世で、何も求めない心より、自由なものがあろうか」と。
断食することで好き勝手な生き方をやめた人は、心の調和を体験し、
それがその人を幸せにしていく。
そして数限りないくだらないことを心配することも一切ない。
そのかわりに人生の秘儀をやすやすと手にいれることができるのが断食なのだ。
それは利口ぶった人たちが生涯かかって
手に入れようとして苦労していることなのだ。
しかし、断食で手に入れることができる」と。
この頃頃、の修道院のファスティング、頭巾をかぶっていたそうです。
それは当時の子供たちがかぶっていたものでしたが、
その意味するところは、
この頭巾をかぶることでイエスの子供であることを表わそうとしていたといいます。
なぜならイエスの子供であることが人間本来のあり方だと受け止めていたからです。
マタイによる福音書
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
とあるBIBLEの言葉を受けとめたのです。
確かに現代社会においては子供であることは大人だけではなく、
娯楽産業、大量の玩具を与えられる子供たちでさえ難しいことになっていますから、
トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』を読むと
何か自分自身が実にはずかしく、情けなくなってしまうのを覚えます。
このBIBLEの言葉のように子供のようにならなければ、
ジーザスを受け入れることができないのです。
2000年前に修道士たちがエジプトの砂漠でファスティングをしながら、
頭巾をかぶったのですから、私たちも塵倍をかぶり、
GODの前に徹底的に低くされる必要があるのです。
また修道会会則を読みますとあらゆるものを断念、手放すことが書かれています。
その修道士たちは言います。
「あらゆる慣習、病みつきになっていることを絶ち、
うっかりするとやり過ぎてしまうこともあります。
しかし、四旬節(ファスティング期間)が来るのが楽しみなのです。
それはより分別のある生き方をし、重要なことに時間をさけるのですから」。
そして完全に手放すと何が待っているのでしょうか。
それはGODの創造された祝福にあずかることができるのです。
エデンの園の回復です。
創世記
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。