コルナロ総括 03 コルナロは宗教改革者に匹敵する
コルナロが残した健康法は、当時の腐敗しきったローマ・カトリックへの食の分野と健康の分野から問題を提起しています。
これは宗教改革に匹敵する革命的な論争を挑んでいることです。
それは3/20に記載しましたが、このような箇所です。
「世の中には神に仕え、神の言葉を伝え、神を賛美して神に奉仕を捧げている人々(聖職者)がいる。
この神に仕える人たちが、食を律する規則正しい食生活をしていたならば、さらに今より、人々から尊敬される人々となるであろう。
彼ら(聖職者)は、つねに健康と幸福に恵まれ、長生きし、そのために知恵を得て、いっそう社会の有用な人間となるからである。
しかし、現実はこの逆である。大半の聖職者が病気になり、気分もすぐれず、気持ち悪い晩年を過ごしているのである。
そのような病気の苦しみは神が贈られたものとしているから始末が悪い。
ほんとうはこのようなことを悔改める機会のためにあるのだがそうではないようだ。
これは大きな間違いである。神が創造された愛すべき人が、病んだり、それで悩んだりすることを神は望んでおられるはずがない。
人がこのような問題に直面しているのは、人が知らず、知らずかまたは知っていながら、飽食に溺れ、そのほかの不摂生によって自ら招いていることなのである。
聖職者といわれる人たちが、健康管理の面でこの世の模範となるならば、天国の道は今よりずっと歩きやすくなるであろう。
ほんとうに聖職者は食を節することが心身両面の健康に欠かせないということを普通の信徒に教える責務がある。」
これは当時のカトリックの腐敗ぶりを露骨に批判した文章であり、
この問題的は、宗教改革者、マルチン・ルターに匹敵する問題提起です。
しかし、そうならなかったのは、コルナロが聖職者ではなかったことです。
また、断食として問題を提起しなかったことです。
信徒を指導すべき教職者(神父や献身者)が、食に溺れ、贅沢三昧を謳歌して、それが原因で病気になったら、
これぞ神の与えた苦しみという受け止めは根本的に狂っています。
このような倒錯した腐敗はなぜカトリックの中に起こったのでしょうか。
経済的にも大変な繁栄を謳歌していました。
そのような中世時代を支配したローマ・カトリックの指導者たちが、
食や健康面でもかなり退廃の極みを歩んでいたのです。
それはコルナロの文章に的確に書かれています。
そしてカトリックの信徒には到底、見本となるようなものではありませんでした。
まさにローマ帝国末期の様相であったのです。
これはポンペの遺跡から出てきた記録にも明らかなように、
飽食と過食の日々をヴェネツィアの教職者が溺れていたとすれば最悪の事態です。
しかし、このような有様は、今日、ごく限られた方たちとは思いますが、
少なくとも日本のプロテスタントの牧師たちの中にもあることを見ました。
超少食や断食を嘲笑い、お酒を飲み、肉食など贅沢な食に溺れている光景です。
日本にはもちろん断食をしっかりして祈る牧師たちもおられますが・・・